Enigma Variations -Variations on an Original Theme for Orchestra
E. エルガー Edward William Elgar (1857-1934)
-Introduction-
「エニグマ変奏曲」は、まさにエルガーによる ”音楽讃歌” だ。
また音楽を愛する者への讃歌でもあるだろう。そこには音楽や、さまざまな楽器とその奏者たちに対する深い愛情も感じられて已まない。
この曲を聴き終えたとき、「ああ、音楽って何て素晴らしいんだろう!」という叫びが心の奥底から湧き起こるのを、私は止めることができないでいる。
■作品概括
イギリスの生んだ世界的な作曲家、エドワード・エルガーの出世作となったのがこの「エニグマ変奏曲」である。
”エニグマ(Enigma)”とは古代ギリシャ語を語源とする「謎」を意味する言葉で、エルガーが冒頭の主題に ”エニグマ” という表記を添えたことからほどなく「エニグマ変奏曲」の名で呼ばれるようになるのだが、これは実は通称であり正式な題名は上掲の通り「創作主題による管弦楽のための変奏曲」※ という。本邦では
「変奏曲 ”謎”」といった表記も見られる。
そして、この曲には 2つの「謎」が秘められている のである。
※変奏曲(Variation)
ある主題を設定し、それをさまざまに変形する技法を「変奏」といい、主題といくつかの変奏から成る曲を
「変奏曲」という。変奏の技法としては a)旋律の装飾的変奏 b)転回・逆行による変奏 c)音価の拡大・縮小に
よる変奏 d)速度の変化による変奏 e)和声の変化による変奏 がある。旋律の原型を留めたものばかりではな
く、和声進行のみをなぞった変奏をはじめ、旋律のごく断片を取出し発展させたものや、リズムパターン
や拍子を変化させたものなど、「変奏」は自由で多岐に亘っている。
交響曲などの中に変奏曲が織り込まれるケースもよく見られるが、「きらきら星変奏曲」(モーツァルト)
「ハイドンの主題による変奏曲」(ブラームス)「ハンガリー民謡”孔雀”による変奏曲」(コダーイ)をは
じめ、大作曲家による単独楽曲も数多い。
吹奏楽オリジナル曲でも「朝鮮民謡の主題による変奏曲」(チャンス)「フェスティヴァル・ヴァリエーシ
ョン」(スミス)「ダイアモンド・ヴァリエーション」(ジェイガー)「シンフォニック・ヴァリエイショ
ン」(兼田 敏)など実に多くの”変奏曲”の傑作がある。
【出典・参考】 新音楽辞典 (音楽之友社)
■作曲者エルガーと出世作「エニグマ変奏曲」の誕生
✔不遇だったエルガー
「威風堂々第1番」や「愛のあいさつ」がクラシック・ファンに止まらず、幅広い人々に愛され人気を博すエルガーだが、楽器商の家に生まれ、幼少から音楽と楽器に親しんでいたにもかかわらず、経済的な理由から音楽学校にて専門の教育を受けることは叶わなかった。
一旦は法律事務所に務めたものの音楽の夢をあきらめきれず家業を手伝いながら独学を続け、長年に亘る苦労に曝されたというエルガーの経歴は、後年に浴した栄光からすれば信じられないものと思える。ロンドンでのヴァイオリン修行を経て音楽教室を開き生計を立て、その傍らで創作活動を続けていたエルガーは、その音楽教室に入門してきた妻アリスと出会う。
エルガー夫妻
名門軍人家の娘アリスとの恋は、エルガー家が少数派のカトリックであったこともありアリスの親族からの猛反対に遭ったが、二人はそれを乗り越え出会いから2年半後の1889年に結婚する。婚約時にエルガーがアリスに捧げたのが名曲「愛のあいさつ」であることは有名だ。
創作活動としては合唱作品を中心に上梓を続けたエルガーだがその困窮は結婚後も続き、この時期唯一の成功とも云える「愛のあいさつ」の好評も、出版社とは僅か5ポンド※ の買取り契約であったためにエルガー自身を潤すことには全くならなかったという。 ※文献によっては2ギニー(=2ポンド24ペンス)という説、また30ペンス未満という説もあるという。いずれに
してもあまりに微々たる報酬であった。
✔「エニグマ変奏曲」は愛妻アリスとのひと時から誕生した
かかる困窮にあってもエルガーを作曲に専心させ、物心両面で支え続けたのが8歳年上の妻アリスその人である。そしてアリスの存在こそが、エルガーを一流の音楽家へと羽ばたかせた「エニグマ変奏曲」の誕生にも、直接的に深く関係しているのである。
1898年10月のある夜のこと。エルガーはピアノの前に座り、アリスは編み物をしていた。エルガーは何の気なしに旋律を色々と弄んでいた。するとアリスが手を止めて「エドワード、それは何?」と聞いてきた。
「何でもないさ。でもこれで何かできそうだ。」するとエルガーは別のパッセージを弾いて、「誰を連想する?」と聞いた。「彼は、ピアノを弾く時、こうやってウォーミングアップするだろ?」それは正にエルガーとよく合奏を楽しんだ友人ヒュー・ステュワート・パウエルの仕草そのものであった。
「じゃあ、これは?」と荒々しい別のパッセージを弾いてみせる。「ビリーがドアを開けて出て行くところソックリだわ!」とアリス。それは軍人のウイリアム・ミース・ベイカーの威圧的な口調を表現したものだった。
このようにエルガーは次々と友人たちの仕草を音楽で表現してみせた。アリスは言った。「あなたがやろうとしていることは、誰もしたことがない全く新しいことだわ。」
-「エドワード・エルガー 希望と栄光の国」(水越 健一 著)より
これこそが「エニグマ変奏曲」誕生のきっかけである。
アリスがふと気に留めたメロディと、彼女とエルガーのやりとりから紡ぎ出されたアイディアが、この曲を生んだのだ。「エニグマ変奏曲」を作曲した頃、エルガーはいよいよ逼迫した状況にあった。上掲のアリスとのエピソードと同日の朝、エルガーは新作について問合せてきた記者に対し、「私は創作活動の一線を離れて自ら引き籠るか、或いはそうしろと聴衆に言われてしまうだろう。」という趣旨の自嘲的な手紙を書いていたという。
そうした作曲家としての苦難と絶望的な日々を乗り越え「エニグマ変奏曲」は作曲された。
この傑作は当時の高名な指揮者ハンス・リヒターに認められてその指揮により初演され成功を収め、イギリスのみならず世界的にエルガーの名を高めることとなった。
「イギリスの管弦楽曲が国際的に通用し、トスカニーニやワルターらの大指揮者のレパートリーに入った、最初の作品である。」 と評される。初演後の改訂を経て更に完成度を増し、殊にドイツ楽壇で高く評価されたという。 -かくも劇的なエピソードが秘められた楽曲なのである。
✔エルガーの成功と晩年
既に40歳を超えていたエルガーだが、この「エニグマ変奏曲」による成功後、「威風堂々」「チェロ協奏曲」などの名作を次々と上梓し、押しも押されもせぬ大作曲家となっていく。祖国からもナイトに続き「英国王の音楽師範」にも叙され、遂にはバロネット(准男爵) に叙されるという栄誉を受けるのである。
…しかし一方で第一次世界大戦を境にエルガーの音楽は「時代遅れ」との厳しい世評を浴び、高く評価してくれていたドイツ楽壇とも国家の敵対関係から縁が切れ、エルガーは再び失意の日々にさらされることになった。1920年には最愛の妻アリスも失い、創作活動に致命的な打撃を受ける。
「時代遅れ」とは、今となっては全く不当な評価だが、芸術家の人生に光と影はつきものだ。エルガーも実に波乱万丈な生涯を送ったのだった。
■2つの「謎」
✔第1の謎
この曲に秘められた第一の「謎」とは、各変奏に付された ”C.A.E.” ”Ysobel” などの副題が何を表すか?である。これらはエルガーの親しい友人たちのイニシャルや愛称なのであった。「中に描かれた友人たちに捧ぐ」との献呈がある通り、エルガーは友人たちそれぞれのキャラクターを表す変奏曲集として、この楽曲を構成したのである。
熱心な研究者がこの謎に挑み、後にエルガー自身もコメントを発してそれを裏付けたことから、現在では謎解きは完了したと云ってよい。
上画像:Litton 盤CDリーフレットより転載:登場するエルガーの友人たちの写真を元に、これをイラスト化したもの
✔第2の謎
さて、「エニグマ変奏曲」には、もう一つ大きな”謎”が込められていることが有名である。
「(前略) 全曲を通じて別の更に大きな主題が存在しているけれども、それは演奏されない。即ちこの曲の真の主題は決して姿を現さないのである。これは例えばメーテルリンクの戯曲『侵入者』や『七人の王女』において、本当の主役が現れないのと同様である。」
このエルガーのコメントは、エニグマの主題が一層重要なもう一つの主題へ対位的な役割を果たしていることを示唆すると云われる。
14の変奏に付された副題の ”謎” は、熱心なファンの研究に加えエルガー自身のコメントも得られて解明されたが、こちらの ”第2の謎” についてエルガーは「『謎』については説明しまい。その意味は不明のままにされておかねばならない。」として、一向に明かそうとしなかった。
秘められた主題としては「イングランド国歌」「ルール・ブリタニア」「オールド・ラング・ライン(スコットランド民謡/「蛍の光」)」「交響曲第38番『プラハ』(モーツァルト)」などが研究者たちから候補に挙げられているし、また音楽の父・バッハの名に基くB,A,C,Hの4音を用いたことを意味するのだという説もあるが、いずれも決定的なものではない。
そのため、もはや純然たる音楽的技法を離れ、エルガーのいう「主題」とは概念的な-”友情” や ”愛”、はたまた ”道徳心の亡霊” といった比喩に至るまで-ものではないか、との説も生まれた。
「聴き手は音楽だけを聴かなければならず、複雑な ”プログラム” で悩まされてもいけない。」とエルガーは総括した。”第2の謎” の答えは、そんなエルガーの望み通り現在も解明されていないのである。
【出典・参考】
「エドワード・エルガー 希望と栄光の国」 水越 健一 著
「最新名曲全集」(音楽之友社) 所載の解説 太田黒 元雄 著
「エニグマ変奏曲」(オイレンブルクスコア)所載の解説
エスター・キャビエット=ダンスピー 著/三橋 圭介 訳
<以下各氏によるCDリーフレット解説>
浅里公三、藤野俊介、エリック・L. ダドリー(小林誠一 訳)、吉成順、満津岡信育、
出谷啓、柴田克彦、スティーヴン・バンフィールド(福田弥 訳)、
ニック・ジョーンズ(木村博江 訳)、大木正純、安田寛、三浦淳史
■楽曲解説
「エニグマ変奏曲」は主題とそれに続く14の変奏曲から成っている。
エルガー自身「種々の変奏と主題の外見上の関係がしばしば極めて浅いことを諸君に警告する。」 と述べているように、”主題の変奏” から遊離することなく楽曲を組み上げている一方で、厳密な変奏ばかりではなくさまざまな曲想・表情を持った多彩な楽曲の集合体となっている。その自在さもこの曲の魅力の一つと云えるだろう。
エルガー自身のコメント ( 「」 )にも触れながらご紹介する。
✔主題 Andante
深遠にして憂いを帯びた短調の楽句と、夢想的で高揚感のある長調の楽句という対照的な2つの部分から成る10小節の旋律である。
エルガーはこれを「芸術家の孤独を表現するもの」と説明した。前述の通り、この主題には ”Enigma”(謎)との表記が付されている。弦楽器を中心としたシンプルな提示である。
✔第1変奏( C. A. E. ) L'istesso tempo
最初の変奏で描かれたのはエルガーの愛妻=キャロライン・アリス・エルガー ( Caroline Alice Elgar )。主題に応答する Oboe と Fagotto の3連符のパッセージはエルガーが帰宅の合図に吹いた口笛とのことで、この部分は愛情に包まれた二人の関係を象徴するもの。
主題はヴァイオリンによるたおやかなシンコペーションの伴奏やさまざまな楽句、楽器でふくよかに彩られている。
「この変奏は実際には主題の延長である。ロマンチックで繊細なものを付け加えたかったのだ。C.A.E. を知っている者なら、ロマンチックで繊細な霊感に満たされた彼女を表したのだと、すぐ判ると思う。」
あたたかで優しいアリス夫人の人柄を反映した変奏である。
✔第2変奏( H. D. S.-P. )Allegro
続いてやや気忙し気な速いパッセージの音楽。エルガー(ヴァイオリン)、ネヴィンソン(チェロ / 第12変奏の B.G.N.)とともにしばしばトリオでの演奏を楽しんだアマチュアのピアニスト、ヒュー・デヴィッド・スチュアート=パウエル( Hew David Steuart-Powell ) を表す。
「演奏を始める前に彼が必ず手馴らしにやる全音階の楽句が、ここでは16分音符のパッセージによってユーモラスに戯画化されている。」
✔第3変奏( R. B. T. ) Allegretto
古典学者にしてアマチュア劇団の名優、リチャード・バクスター・タウンゼント( Richard Baxter Townsend )を表す変奏。その裏声を巧みに操るさまを「彼の低い声が時々裏返って ”ソプラノ” の音に飛ぶ。」とエルガーは評した。
前奏部分のリズミックな Oboe の楽句と、タウンゼントの朗々とした声を表す Fagotto とが対照を成す。
主部は3拍目にアクセントのあるマズルカ風の音楽で、生きいきとしたリズムの中に描かれる自然な音楽の起伏が魅力的である。
✔第4変奏( W. M. B. ) Allegro di molto
ここでダイナミックな音楽に転じる。速い3拍子の雄弁な曲想は「大地主の田舎紳士で学者」のウイリアム・ミース・ベイカー( William Meath Baker )が「素早く決然とパーティーの計画を作り、手筈を指示するやドアをバタンと閉めて慌ただしく音楽室を出て行く。」様子である。
大のワグナー党にしてきびきびとした仕切屋、活気のある精力的なこの人物の勢いそのままに、どこかユーモラスに一気呵成の音楽で描く。
✔第5変奏( R. P. A. ) Moderato
リチャード・ペンローズ・アーノルド( Richard Penrose Arnold )は19世紀の高名な詩人マシュー・アーノルドの息子で学者。アマチュアのピアニストにして室内楽を愛した彼をエルガーは「気まぐれで機知に富んでいる。」と評す。
シリアスな会話を好んで交すのに、それが彼の気まぐれやウイットでしばしば途切れるのだとか。
エニグマ主題を従えた弦楽器の深く真剣な旋律に始まるが、やがてまるで子供の笑い声のような愛らしい Oboe (+Horn ) のパッセージと入替る。
交互に繰返されるこの二つの対照的な楽想をつなぐ伸びやかな Clarinet ソロがまた美しい。
✔第6変奏 ( Ysobel ) Andantino
エルガーのヴァイオリンの弟子、イザベル・フィットン( Isabel Fitton )を指す。イザベルの古風な言い方である ”イゾベル” を使用したあたりは親近感を込めたエルガーのユーモアであろう。
「ヴァイオリンはありふれている」と Viola に転じた彼女を表すこの変奏では、それ故に全曲を通じ Viola が大活躍である。冒頭の弓が上下して弦を渡る Viola のフレーズは、ヴィオラ初心者のための ”課題” なんだとか。これに呼応する Fagotto のソリが何ともほのぼのとして味わい深い。
Clarinet の上向型楽句でアクセントを加味しつつも終始悠々とした音楽であり、 Viola が冒頭のモチーフを再び奏して締めくくられる。
✔第7変奏( Troyte ) Presto
全曲中最も速く、また最も烈しい音楽。急激にクレシェンドするTimpani(+低弦)のエキサイティングなリズムに始まるこの曲は、終生エルガーの親友だった建築家アーサー・トロイト・グリフィス( Arthur Troyte Griffith )を表す。
エルガーはトロイトにピアノを教えていたが、あまり上達しなかったらしい。
この Timpani のリズムは、ドタバタとした「ピアノを弾く彼の不器用な全て」の描写。
但し、楽曲としては決して無様なものなどではない!
「エニグマ変奏曲」全体を俯瞰しても、この第7変奏の存在は大きなアクセントだ。
金管中低音の力強いフレーズ、飛び交う花火のように華々しいトランペットや弦楽器…洵に鮮烈な印象を与えている。
✔第8変奏( W. N. ) Allegretto
ズバッと締めくくられた烈しい「トロイト」から、再び柔らかな音楽に転じる。
Clarinet をはじめとした木管群が描く可愛らしい楽句と、落着きのある弦楽器の旋律とは対照的だが、しかし不思議と一体となり ”平和” をイメージさせて已まない。
「モルヴァーン近在の18世紀からある邸宅に住むノーベリー家の女性」 ウィニフレッド・ノーベリー( Winifred Norbury )の肖像であるこの曲に描かれたのは、まさに平和と安寧に包まれた幸福な家庭そのものだ。
彼女はエルガーの楽譜浄書を手伝った女性たちの一人であり、2本の Clarinet が奏する変奏はその親切さ・心細やかさを象徴する。
続いて現れるトリルを伴った Oboe のフレーズも 「独特の笑い声がほのめかす彼女の愛すべき人柄」 を表すもの。
Piccolo を加えたおやかなフレーズも実に素敵で印象に残る。好適な楽器用法による音色対比においても傑出した一曲なのである。
✔第9変奏( Nimrod ) Adagio
全曲中最も有名な変奏で単独でとりあげられるほか、歌詞を付し歌曲※ として演奏されることも多い。エニグマ主題の変奏であることはもちろんながら、さらに劇的に歌い上げ抒情を極める名旋律である。
※”We will stand together” 或いは ”Lux Aeterna” の標題でそれぞれに歌詞が付されており、さまざまな演奏形態・
編曲で広く愛奏されている。
”ニムロッド(ニムロデ)”とは旧約聖書に登場するノアの曾孫で狩りの名人。
エルガーは大親友にして助言者でもあった出版社(Novello)勤務のオーガスト・ヨハネス・イエーガー( August Johannes Jaeger )のことを描いたこの変奏にこの標題を付した。ドイツ語でJaegerが ”狩人” の意であることに因んだのである。
イエーガーは当時失意にあったエルガーを励まし、苦難と闘い勝利した大作曲家の例(ベートーヴェンの「悲愴」ソナタを題材に語りあったと云われる)を挙げ、作曲活動の再開を促したというエピソードが伝わっている。イエーガーはまた「エニグマ変奏曲」の初演後に最終変奏の加筆改訂を助言し、現在の完成形を導いたことでも知られる。
「君の外面的な様子を省き、いいところ-つまり愛すべき魂だけを見る。」 とエルガーはイエーガーに伝えた。二人の繋がりは心の置けない、洵に深いものであったことが窺い知れよう。
前変奏から途切れることなく、静謐に始まるこの変奏はその気高さに特筆すべきものがある。音楽はうねりながら全体として放射状に高揚し、終始烈しい情熱を秘めていて感動を誘うのだが、決して気品を失うことはない。荘厳にして堂々たるクライマックスの後には静かで豊かな余韻を湛え、曲を終う。
✔第10変奏( Dorabella )Intermezzo : Allegretto
後に第2変奏で描かれたパウエルの夫人となるドラ・ペニー(Dora Penny)を描いた愛すべき間奏曲、”ニムロッド” の熱を静かに冷ます心憎い楽曲配置である。
”ドラベッラ” はモーツァルトの歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」のヒロインの一人で、エルガーは彼女にこれに因んだ愛称を贈った。リズミックだが柔和な曲想には彼女を見守る、優しさに満ちたエルガーの視点が感じられよう。
一音目にテヌートを付した Oboe(+Clarinet )の16分音符の楽句は、どもりがちな彼女の話し方を愛情をもって表すもの。これに気づいたペニー嬢は「嬉しさと誇らしさで、ほとんど恥ずかしくなるほどだった。」と述べたという。
この変奏にも第6変奏で活躍したViolaにソロが現れるのだが、その抒情にもすっかり魅了されてしまう。
✔第11変奏( G. R. S. )Allegro di molto
標題が示すのは1899年にヘリフォード大聖堂のオルガニストに任命されたジョージ・ロバートソン・シンクレア( George Robertson Sinclair )。
しかし実は「この変奏曲はオルガンや大聖堂とは関係なく、シンクレア本人とも関係が薄い。最初の数小節は彼の飼っている大きなブルドッグ、ダンを表している。」というものである。
快速でめまぐるしい弦楽器のパッセージの冒頭は、このダンがワイ川の堤を駆け下りて急流に飛び込むさまを描いたという。ダンは主人の杖を取りに飛び込んだのだとか、単に落っこちてしまったのだとか、諸説定まらない。
ともあれ、最後の Timpani を伴う一音がダンの得意気な一吠えであることは間違いないだろう。音楽はエネルギッシュで生命感に溢れ、「エニグマ変奏曲」 全曲に於ける終盤の効果的なアクセントとなっている。
✔第12変奏( B. G. N. )Andante
「親愛なる友に捧げる」とあるこの変奏は、第2変奏で描かれたパウエルと共にしばしばエルガーと合奏を楽しんだチェロ奏者、バジル・G・ネヴィンソン( Basil G. Nevinson )の肖像。短調のエニグマ主題をもとに一層メランコリックに仕立てた旋律が胸を打つ。
そしてこれが Cello という楽器の持つ抒情性に、この上なく合致しているのである。
✔第13変奏(***)Romanza : Moderato
草稿には ” L. M. L. ” との表示があったが、エルガーは後にそれを消し去りアスタリスク3つのみを残した。エルガーの音楽仲間であったメアリー・ライゴン(Lady Mary Lygon)を指すものと推定※ されているが、確定はしていない。
※メアリー・ライゴンが既に旅立っていて許可が得られなかったからとか、妻以外の女性に ”ロマンツァ” を捧
げることを慎んだとか、これも諸説ある。またジュリア・ワーシングトンというアメリカ人女性を念頭に置
いていたのではないかという全くの異説もあるが、エルガーがジュリアと出会ったのは作曲より後の1905年
であり、この説は採り得ないとされている。
前変奏と切れ目なく始まるこの ”ロマンツァ” は、その名の通り全曲中最もロマンチックな情感を持つと評される。Clarinet ソロにメンデルスゾーン作「静かな海と楽しい航海」序曲からの引用が現れること、そして船の機関音を示すスネアドラムの撥による Timpani のロールや、たゆたう波のような低弦のフレーズが度々登場することなどから、当時オーストラリアへの航海に出発していたレディ・ライゴンにその無事を祈念して捧げられたと考えられているのである。
「静かな海と楽しい航海」からの引用とはいっても安易なものでないのがさすがであり、原曲とはイメージの違う密やかさを有するのが印象的。
この変奏が醸すのは幻想的な音楽の風景だが、重々しい足取りで緊迫のクライマックスを迎える。そして再び本変奏の冒頭に戻り、徐々に遠ざかっていよいよ全曲のフィナーレに向う、というセッティングがまた素晴らしい。
✔第14変奏( E. D. U. )Finale : Allegro
全曲の掉尾を飾るにふさわしいクライマックスとなる最終変奏はエルガー自身の自画像である。標題はアリス夫人のつけたエルガーの愛称、エドゥー( Edu )に基いている。
リズミックだが密やかに始まる序奏部は放射状に高揚し、遂に視界が開け金管の音色を効かせたパワフルなサウンドが響き渡る。-そこに至る息の長いクレシェンドを9小節目からリードしていく Oboe の音色には、ゾクゾクするような感動を覚えずにいられないだろう。ここからは2小節ごとの楽句の応答がみられるが、対比がありつつも分断せずその全てが一つの音楽の流れを形成する大きなフレージングの演奏が期待される。
一旦 poco piu tranquillo で静まり優美で幅広い音楽を挟んだ後、”Nimrod” の旋律が再現される劇的な Grandioso のポリリズムへ。
Timpani の3連符を合図に一層重厚なサウンドとなって足取りを速め、本変奏冒頭部の再現となる。すると今度は第1変奏に現れた ”エルガーの口笛” に導かれて静まり、妻アリスを表す第1変奏が再現されるのだ。 -実に周到な構成である
。
Trumpet のファンファーレが吹き鳴らされてからは、楽曲は栄光の輝きに包まれた終幕まで、悠然たる足取りでスケールを拡大していく。
複数の楽句が交じり合いエネルギー溢れる音楽のうねりの中で、あの憂鬱な短調主題のモチーフが堂々と奏され、それがやがて確信に満ちたマルカートとなるさまが聴き取れよう。エルガーの抱えていた憂鬱が晴れやかに昇華した、と云うのは言い過ぎだろうか。
音価を拡大した最終盤は例えようのない高揚感が充満する。力強いユニゾンが sfp から壮大にモルト・クレシェンドされ、最後はGのコードを輝かしく放って全曲を締めくくる。
■推奨音源
「エニグマ変奏曲」は比較的録音が多く、さまざまな演奏を聴くことができる。(演奏も録音も前時代的ではあるが、エルガー自身の指揮による録音も遺されており参考になるだろう。)これまでに34の音源に接することができたが、これほど ”聴き比べ” の愉しみがある曲もないように思う。どの演奏もそれぞれに趣があり、ただ演奏しただけ、といったものは殆どなかったと言ってよい。
例えばバーンスタイン盤やストコフスキー盤はそれぞれの個性のもとに楽曲が確りと消化されたことを示す演奏であり、あとは ”好み” である。私個人として概括すれば、この曲に関しては饒舌過ぎない演奏の方が好きということになる。
その観点から、音源は以下をお奨めしたい。
ベルナルド・ハイティンクcond.
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団(Live)
大きなフレーズで音楽が捉えられていることが全編に亘って感じられる名演。アクの強さはなく、それでいて各変奏の個性がそれぞれにふさわしく表現されており実に説得力がある。「完璧」といった演奏ではないが、全曲を俯瞰しての構成感も素晴らしく、最終変奏の劇的な感動は聴く者を音楽の悦びに包み込んでくれる。
スネアドラムの装飾音符を伴う最後の一音が ”スタタタジャーン” と鳴り響く瞬間はまさに圧巻!BRAVO !
ゲオルグ・ショルティcond. シカゴ交響楽団
明晰で生命感に満ち、メリハリの効いたまさにハイレベルな名演。
殊にさすがはショルティ&シカゴ!というべき金管群の演奏レベルの高さは惚れ惚れさせられるもの。文字通り ”群を抜いて” いる。
チャールズ・マッケラスcond.
ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団
気品があり、それでいて骨太で隆々たる一本の芯が通ったように感じられる演奏。あくまで素顔のまま、ガツンと魅力を伝えてくるような好演。
シャルル・デュトワcond. モントリオール交響楽団
饒舌な語り口の演奏の中でも、バランスの良い構成感と明快な表現で一気に聴かせる。
第7変奏「トロイト」の金管中低音は抜群のサウンド、お見事!
アンドリュー・デイヴィスcond.
フィルハーモニア管弦楽団
各変奏をそれぞれ表情豊かに演奏し、くっきりとコントラストを描く。表現力豊かな一方で、明晰さと知性に貫かれた落着きを感じさせる好演。
【その他の所有音源】
レナード・バーンスタインcond. BBC交響楽団
アンドレ・プレヴィンcond. ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団
ロジャー・ノリントンcond. SWRシュトゥットガルト放送交響楽団
コリン・デイヴィスcond. バイエルン放送交響楽団
オイゲン・ヨッフムcond. ロンドン交響楽団
エイドリアン・リーパーcond. チェコスロヴァキア放送ブラスティラバ交響楽団
サイモン・ラトルcond. バーミンガム市交響楽団
ウラディーミル・アシュケナージcond. シドニー交響楽団
ジョン・バルビローリcond. フィルハーモニア管弦楽団
ダニエル・バレンボイムcond. ロンドンフィルハーモニー管弦楽団
エイドリアン・ボールトcond. ロンドン交響楽団
ジョン・エリオット・ガーナーcond. ウイーンフィルハーモニー管弦楽団
ジェームズ・レヴァインcond. ベルリンフィルハーモニー管弦楽団(Live)
アンドリュー・リットンcond. ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団
ピエール・モントゥーcond. ロンドン交響楽団
パーヴォ・ヤルヴィcond. シンシナティ交響楽団
ジュゼッペ・シノーポリcond. フィルハーモニア管弦楽団
スタニスワフ・スクロヴァチェフスキcond. ザールブリュッケン放送交響楽団
レナード・スラットキンcond. ロンドンフィルハーモニー管弦楽団
ゲオルグ・ショルティcond. ウイーンフィルハーモニー管弦楽団
レオポルト・ストコフスキーcond. チェコフィルハーモニー管弦楽団
デヴィット・ジンマンcond. ボルティモア交響楽団
ネヴィル・マリナーcond. アカデミー室内管弦楽団
マルコム・サージェントcond. BBC交響楽団(Live)
アルトゥーロ・トスカニーニcond. NBC交響楽団
エドワード・エルガーcond. リヤル・アルバート・ホール管弦楽団
アレキサンダー・ギブソンcond. スコットランド゙国立管弦楽団
ジョージ・ハーストcond. ボーンマス交響楽団
ユージン・オーマンディcond. フィラデルフィア交響楽団
-Epilogue-
「エニグマ変奏曲」を例えば吹奏楽コンクール自由曲としての演奏や ”ニムロッド” のみの抜粋で耳にする場合、それは当然ながら全曲演奏に30分を要するこの楽曲のごく一部でしかない。
そうしたものをきっかけにお知りになった方には、ぜひともこの素敵な ”音楽讃歌” の全曲を、管弦楽原曲を聴いてみていただきたい!完全な姿に触れればこの曲の魅力が遥かに深いことが感じられるはずだ。
どの部分も決して捨て置けない、キラメキに満ち溢れた音楽なのである。
<Originally Issued on 2013.12.22. / Revised on 2022.5.9. / Further Revised on 2023.11.19.>
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