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コンサートバンドとジャズアンサンブルのためのラプソディ

更新日:5月17日

Rhapsody for Concert Band and Jazz Ensemble

         P. ウイリアムズ (Patrick Williams 1939- ) 作曲

         S. ネスティコ (Samuel ”Sammy” Lewis Nestico 1924- ) 編曲


-Introduction-

コンサートバンドとジャズアンサンブルのためのラプソディはともにフル編成の吹奏楽団とビッグバンドとが共演する特異な吹奏楽オリジナル曲で、全編に亘りアフロを含む ”ジャズ” をフィーチャーしている。

ジャズがふんだんに取入れられているのは、”それこそがアメリカのラプソディ(狂詩曲)の題材たり得る” と云わんとしているのであって、この作品は当然単なるポピュラー・ミュージックとして捉えるべきでない「現代音楽作品」なのである。


■この特異な作品を生み出し得た作曲者、そして編曲者

コンサートバンドとジャズアンサンブルのためのラプソディ(1975年)は、世界的にみても随一のテクニックを誇るアメリカ空軍ワシントン・バンドの委嘱によりパトリック・ウイリアムズが書き下ろし、これにサミー・ネスティコが吹奏楽曲としてのアレンジを施したものである。


作曲者パトリック・ウイリアムズはエミー賞4度、グラミー賞2度の受賞に輝くアメリカ・ポピュラー音楽界の大御所で、映像関連音楽の分野でも幅広く活躍している作・編曲家。

ジャズ・カルテットと管弦楽のための「アメリカン・コンチェルト」( An American Concerto )が1977年のピューリッツァー賞にノミネートされるなど、交響管弦楽にもジャズバンドにも精通していることで知られる。

参考:作曲者HP  http://patrickwilliamsmusic.com/




編曲者サミー・ネスティコは、カウント・ベイシー・オーケストラのコンポーザー/アレンジャーとして高名なジャズ界の大御所である。

ネスティコは1968年から1984年までの間カウント・ベイシー・オーケストラのために楽曲を提供※ して同楽団を鮮やかに甦らせ、ベイシー後期の音楽を彩った。







※ネスティコの代表作「ストレイト・アヘッド」(Straight Ahead / 1968年) だけを

 見ても ”Basie Straight-Ahead” ”Lonely Street” ”Fun Time” ”Magic Flea” ”Switch in

 Time”と名曲の目白押し!

 自身 Trombone 奏者としてのキャリアを持つネスティコの作品には、管楽器奏者

 のハートを惹きつけて已まない ”高揚感” に溢れた楽句が鏤められている。



ネスティコもまたジャズとクラシックの融合に高い関心を示し続けており、作曲者パトリック・ウイリアムズの意図に共感するところも大きかったであろう。

「コンサートバンドとジャズアンサンブルのためのラプソディ」はそんな巨匠二人のタッグによって生まれたのだった。

特に、自身がアメリカ空軍ワシントン・バンドに所属しアレンジャーとして、またその別働隊ビッグバンド ”Airmen of Note” のリーダーとして活躍した経歴を持つネスティコ※ が吹奏楽へのアレンジを受け持ったことは、あまりにピタリと嵌り過ぎというものだ!


 ※この経歴ゆえ、ジャズ界の巨匠たるネスティコには少なからず吹奏楽作品がある。モダンで生気に満ちた快速

  なマーチ「銀色の翼」 ( The Silver Quill / Dale Harphamとの共作) や、カウント・ベイシーの世界を吹奏楽にアダ

  プトした「トリビュート・トゥ・ザ・カウント」 ( Tribute to the Count ) などがそれである。


そして初演はアメリカ空軍ワシントン・バンドと ”Airmen of Note” の共演により行われたと想像されるのだが…

名手を揃えたその演奏は、さぞかしスリリングだったのではないだろうか?

                                USAF  Washington D.C. Band & Airmen of Note


■楽曲概括

✔編成

編成は上掲の通りで、(重複すべきパートも考慮して) コンサートバンドは45名以上、ジャズアンサンブルが17名と最低限でも60名を越える編成となる。

全般に現代吹奏楽ならびにビッグバンドのオーソドックスな楽器構成だが、Harp とElectric Bass ( Fender Bass との表記あり) も効果的に用いられている。 ✔構成

ごく大きく俯瞰すると、序奏-Swing-Afro-エンディング から成る接続曲なのだが、メドレー風に切り替わるのではなく、各部分部分で(現代)クラシックとジャズとが入り混じってめまぐるしく応酬し、対比されている。そしてそれらは終盤に向かうにつれ溶け合って、シームレスに融合の色を濃くすることがご理解いただけるだろう。

 

尚、中間部に現れるアドリブは 24小節×2 を Trumpet が奏する(書譜なし)のがオリジナルの指定であり、リピート後の2回目にはジャズアンサンブルのバッキングとSaxセクションによるカウンターが絡む作りになっている。

但しこの部分は延長しても良いし、逆に全てカットすることも可と表記があり、それに伴いアドリブ担当楽器※ にも自由な選択が許されていると解されよう。

   ※中間部に現れるアドリブ (24小節×2) の実際の演奏においては、バンドによって「Vibraphone&Trumpet」

   「Piano&Trumpet」「Vibraphone&Sax Soli」「Vibraphone&Trombone」「A.Sax&Sax Soli」など、さ

   まざまな組合せを聴くことができる。


構成を詳細に分析し、図示してみると次の通りである。


■楽曲解説

コンサート・バンドのテュッティ・ユニゾン- ダイナミックにモチーフが奏されて曲は開始する。Timpani ソロが密やかに静まって Jazz の匂いが漂う経過句へ。

 

これに続きモチーフが更にダイナミックに繰返されると、もがくようなHorn+Euphonium+Fagotto の咆哮が轟いて、序奏部を終える。

この…楽器の組合せといい音域の低さといい、”咆哮” としては限界的なものを敢えて用いたそこには、抑制されたが故に凄味のある猛りを感じてしまう。


その余熱の中から、クールな Jazz のフレーズが聴こえてくる。

序奏部のスピードもそのままに、鋭利な変貌を見せるのだ。このフレーズに誇張されたクレシェンドは必要ないだろう。どこまでもクールなムードの演奏がイイ!


繰返され厚みを増した Jazz のフレーズがエキサイティングにヒート・アップしてブレイクすると、木管楽器のストイックな伴奏を従えてコラールが奏される。


コンサート・バンドが担当するこの部分も実に現代的な響きを持っており、センスの良さに驚かされる。このコラールがいよいよ息長いフレーズとなって高揚し、壮大な前半のクライマックスを形成していくのである。

 

パワフルな Jazz フレーズと息を潜めたコラールとの頻繁な応答に続き、Jazz ベースに導かれた経過句でエネルギーを高めて一層本格的な Swing Jazz が姿を現す。


スコアには ”NICE & TIGHT”(精密で締った感じで)の表記 -これはここの楽想をピタリと指し示している。高いエネルギーを発散し突き進む一方で、コントロールされたクールさも必要な部分であり、そのムードのまま個人技の炸裂するアドリブへと突入する。

ぜひともスリリングなソロが聴きたいところである。

 

アドリブの終了とともに、特徴的なヘミオラのリズムをパーカッションが打ち鳴らし Afroへと転じる。パーカッションが静まって木管群の3連符が幻想的な響きを醸すと、やがてそこから Trombone の夢幻的な美しいソロ※ が姿を現すのだ。


この音域の Trombone ソロは透明にしてテンションが効き、他では得られない魅力にあふれたもの。洵に堪えられない!

サブリミナルに刻み続けられていたヘミオラのリズムはやがて完全に消え、柔らかにたゆたう伴奏の中で Trombone のソロは徐々に動きを止め、やがて長い一息で終う。

   ※このTromboneソロはアマチュアにとって非常に厳しい音域でもあり、 Trumpet (Flugelhorn) や Sax.に置換

   えられてしまうケースが多い。その事情は直ぐに察せるものではあるが、 Trombone ソロと比べると魅力が   矮小化してしまうので残念である。


幻想的な余韻を受けて木管低音域が再び Afro のリズムを呼び戻し、Sax. が Flute へと持替えた※ ジャズアンサンブルによる穏やかにして伸びやかな旋律を導く。

ここでは一層幻想的なサウンドの美しい音楽となり、安寧を深めていくのが印象的である。

※この部分では、スコアの指定通りだと後にコンサートバンドのFluteパートも加わってくるため、ジャズアン サンブルの Sax. 奏者の持替えも含めると、少なくとも7人の Flute で3パートしかない譜面を演奏すること

   になる。しかしながら「大人数で賑やかに」という意味とは到底思えないので、ここは最小限の人数で奏され

   た場合の ”薄さ” を嫌った…くらいに捉えて、 実際には奏者数を調整するなどの対応をすべきであろう。

 

-しかし、この夢見心地がたった1小節の強烈なクレッシェンドにより、本作品最大のクライマックスへと向かうのだ。この凄味こそを刮目して見よ!


細かな音符で動き回る木管群をバックに、コンサートバンドとジャズアンサンブルがダイナミックに応酬する-。


音楽が大胆にスケールを拡大して鳴動するさまは、最高に感動的である。

ここを ”張った音” で、しかし荒れることなくテンションの高い音楽に ”キメる” のは並大抵のことではないが…。

 

そして存分に鳴動した音楽は、きつく締めた紐を緩めるように再び穏やかさを求め、名残惜しげに遠くなっていく。




最後は静寂を打ち破る BassDrum の一撃とともに、突如強烈なエンディングへ。

一気呵成に突っ走り、あくまで Afro の部分を締めくくる形で鮮烈に、そしてあっという間に全曲を閉じる。

やや唐突な感を受けるエンディングとなっているが、変貌を繰返し刺戟を与え続けて進んできたこの音楽に予定調和的な終末はあり得ない。進み続けたままに終わりを迎えるのが必然なのであろう。


♪♪♪  

一般編成の吹奏楽団でこの曲を演奏する場合には、ジャズアンサンブルを別建で編成し得なかったり、ジャズアンサンブルメンバーの楽器持替えの指定があったりという問題のため、どうしても全編に亘るスコアリングの見直しを迫られてしまう。これは周到な「設計」を要する作業であり、簡単ではないはずだが、それでも吹奏楽コンクールで採り上げられることも多い。 ※

 

全日本吹奏楽コンクールでも5団体が演奏(内4団体が金賞受賞)しており、アドリブ部分をはじめとして、それぞれ実に個性あふれる演奏を聴かせているのも、この曲ならではの特性を表していると云えよう。

 

  ※出版譜が長らく絶版となっていたことに加え、コンクールにおいてエレクトリック・ベースが使用不可と

   なったこともあって、近年ではコンクールでの演奏は減少している。


■推奨音源

ノーカット音源としては以下が挙げられる。


加養 浩幸cond.

土気シビックウインドオーケストラ

本格的な Jazz の色合いはやや後退しているが、確実にアナリーゼされ整理された好演。難しいこの曲が統理されている印象を与えるのは、“イロモノ” などという安易な捉え方を一切排し、楽曲に正面から真摯に挑んだゆえだろう。

アドリブは Vibraphone と Trumpet。Afro に現れるハイトーンの Trombone ソロも譜面指定通り演奏されている。




レイ・クレーマーcond.

武蔵野音大ウインド・アンサンブル

“Nice & Tight”の部分の引き締った演奏が印象に残る。

ピアノをうまく効かせて端正でセンスのいい演奏となっているが、求められるもう一つの側面である熱狂は抑制気味。

アドリブは Piano と Trumpet で、こちらも Afro に現れるハイトーンの Trombone ソロは譜面指定通り。




-Epilogue-

コンサートバンドとジャズアンサンブルという異なる演奏形態が対峙して展開する楽曲なのだが、実際に演奏してみて感じたのは、ジャズ(含むアフロ)の世界が間断なくこの音楽そのものに刺戟を与え続けている存在であるということ。

そして “対比的” に緊張感のある遣り取りが応酬されている一方で、シームレスにあくまで一つの音楽として最後まで繋がっていると感じられること。

 

この曲はジャズフレーズのハイセンスさを表すことだけでも難しい。加えてミスなく”キマって” いないと、どうにもジャズらしく聴こえてこないこともあり、単なる譜面 (フヅラ) 以上に結構な難曲である。

しかしそれをも踏み超えて、目まぐるしく入れ替わる曲想があくまでも同根=“一つの音楽”として呈示されるべき。それがこの曲の本質だと思う。


「さあ、ここからはジャズ!」といった単純な切替えではない。登場するのは異なったキャラクターの二人の人物ではなく、同一人物。絵に描いたように紳士然とした人物が、何の前触れもなく瞬時に表情も口調も変え、ギョッとするようなヤクザな笑みをニヤリと浮かべる…例えるなら「ジキルとハイド」の物語がイメージされるような「凄み」が感じられるものであって欲しい。

同一の楽曲として決して分離することのない中で“変貌”が繰り返されるからこそ感じられる「凄み」-これが生まれたとき、この “二重人格のラプソディ” はより高次元な音楽として昇華されるであろう。

 

もう一度言おう。ジャズがふんだんに取入れられているのは、”それこそがアメリカのラプソディ(狂詩曲)の題材たり得る” と云わんとしているのであって、冒頭にも述べた通り、この作品は当然単なるポピュラー・ミュージックとして捉えるべきでない「現代音楽」である。アドリブをはじめとして曲の性格上演奏サイドに委ねられた部分も多く、例えばオリジナルのスコアにない打楽器の追加なども許容し得るだろう。しかしそれだけに曲の本質に迫ったセンスが求められる。

コンクールでの演奏の中には、凡そ相応しくないスコアの変更や解釈を施したものもある。したり顔に見えても浅薄なその演奏は、楽曲を安易に或いは表層的に捉えた結果ではないだろうか?あれではこの曲の本質に迫ったとは言えまい。もっと確りと楽曲に相対すべきと感じてしまう。

 

-ぜひ究極的に高次元な演奏を聴いてみたい一曲である。



     <Originally Issued on 2012.11.23. / Revised on 2022.5.18. / Further Revised on 2023.11.11.>



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