Bellerophon Overture P. W. ホエアー Paul William Whear ( 1956-2021 )
-Introduction- 「本番は、八分の力でな」 コンクール会場のリハーサル室を出ようとした私たちに、夏休み中ずっと指導して下さった先輩OBから声がかかる。この年、トロンボーン・パートは我々2年生が2人のみ。曲中に登場する3声のソリは、5ケ月足らずで鍛え上げた Euphonium の1年生に、その部分だけ 3rd Trombone のパートを吹かせて臨んでいた。3年生がいない、2本しかないゆえに「トロンボーンが弱い」とは言われたくない!と負けん気でムキになり猛練習に励んだ日々だった。既に充分 ”鳴らせる” はず。
大分県大会を勝ち抜き、西部(現九州)大会までの自由曲「ベレロフォン序曲」の練習は充分にフレーズを長く、そして他パートとの受け渡しを限りなく丁寧に- そこを重点的にさらってきた。 気負いからどうしても力みがちな我々を、OBは諭してくれたのだ。その言葉を胸に、落着いて演奏できた本番の結果は…「銀賞」。西部吹奏楽コンクールで初めて銅賞を脱した、我が中学の念願を果たした瞬間である。 コンクールの成績としては洵にレベルの低い話ではあるが、まともな指導者ももたず、ただ労力と時間だけを投下していた田舎のバンドにとって、本当に大きくうれしい成果だった。
だからこそ冷房も何もない真夏の暑い暑い校舎で、ひたすらに楽器を吹いていたあの日々の映像が、半世紀近くを経た今も私の脳裏にありありと浮かんでくるのだと思う。
■ベレロフォン

Bellerophon on Pegasus (1746-47/フレスコ画の一部分) by Giovanni Battista Tiepolo
✔天馬ペガサスを駆る英雄 標題となった「ベレロフォン」とはギリシャ神話に登場する英雄であり、ギリシャ名では「ベレロポーン(or ベレロポンテース)」と表記される。 彼は古代ギリシャのポリス (都市国家) の一つであるコリントスの王子であり、生まれながらに「すぐれて秀麗な眉目と、誰をも惚々とさせる男振りとを神々から与えられていた」という。実の父は海神ポセイドン(ポセイドーン)であるとされ、翼のある天馬ペガサス (ペーガソス)※ を御する姿で知られている。その後の冒険においてもそのポセイドンと女神アテナ (アーテナー) の庇護を受けており、ペガサスもポセイドンから与えられたものなのである。 ※ペガサスはペルセウスが怪物メドゥーサの首を斬り落とした際に流れた血から誕生したとされるが、そも
そもメドゥーサもポセイドンの子であるという。
✔ベレロフォンの生涯と冒険 ベレロフォンはある競技の最中に、誤って親族を殺めてしまったことから、祖国コリントスを離れざるを得なくなる。この不幸なエピソードから彼の冒険が始まるのである。 ベレロフォンはアルゴス王プロイトスのもとに身を寄せ、贖罪の日々を過ごすのだが、優れた容姿と男振りが災いして、プロイトス王妃アンテイアに言い寄られる事態となってしまう。潔癖で純真なベレロフォンがこれを全く相手にせず、逆に諌めたことからアンテイアはベレロフォンを憎み、プロイトス王に反対のこと=ベレロフォンがアンテイアに迫り、あげくに力ずくで奪おうとしたのだと訴えた。 これに怒ったプロイトス王は、大神ゼウスの「賓客を守る」という教えに差障ることなくベレロフォンを葬るため、イオバーテス王 (王妃アンテイアの父) の治めるリュキア国へとベレロフォンを差し向ける。

リュキア国では、プロイトス王に因果を含められたイオバーテス王が、ベレロフォンに危険極まりない任務を次々と依頼するのであった。その中でも最も有名なものが「キマイラ退治」である。キマイラ (キメラ) は獅子の前半身に山羊の胴体と多数の蛇の尾を持ち、口から猛火を吐く怪獣で、人畜に夥しい害を与えていた。ペガサスに跨り天空を駆けるベレロフォンは、この危険な怪物を見事討ち果たすことに成功するのだ! この後も「ソリュモイ人の征討」「アマゾーン女軍平定」の難業を相次いで成し遂げ、リュキア国の強者たちの襲撃も退けて凱旋したベレロフォンは、その剛勇と自らが享けている神々の掩護とをイオバーテス王に認めさせる。
そして今度は心からの歓待を得て、イオバーテス王の末娘を娶り、リキュア国の半分を割譲されるのであった。 ※上画像:Bellerophon Riding Pegasus Fighting the Chimaera (1635) by Peter Paul Rubens
しかし幸福の絶頂にあると思われたベレロフォンは、その後子供を次々と失う不幸に襲われる。そして自身も神々の仲間入りを果たすべくペガサスに乗って天界を目指し、その不遜を憎んだ神々の怒りを受けてペガサスから墜落させられてしまう。 墜落の後、アレイオーンの荒野をただ独り彷徨い歩くベレロフォンは、気が変になっていた。
-呉 茂一 著「ギリシア神話」(新潮文庫)より
ギリシャ神話には多くの英雄が登場するが、ことごとく暗い不幸な末路をたどる。
「ペルセウスははからずも祖父を殺して故郷を去り、ヘーラクレースは自焚し、テーセウスは孤島に憤死し、ベレロポーンは狂乱し、メレアグロスは母の呪いで死ぬ。彼らは皆不幸である。いずれが真か、彼らはむしろ「幸福」とは何かと、訊ねているようにも見える。あるいは彼らの価値は、「幸福」が唯一無二の価値ではない、と身をもって提示するところにあるとも、判断されようか。」 (呉 茂一 著「ギリシア神話」下巻 p102 )
-呉氏の指摘通り、英雄とはそもそも ”幸福を求めない” 者なのかも知れない。
■作曲者および楽曲概説

作曲者ポール・ホエアーは弦バス奏者としてのキャリアも持ち、吹奏楽曲としては「ストーンヘンジ交響曲」「吹奏楽のためのソナタ」「エルシノア序曲」などの作品で知られる。 音楽教育にも力を尽くしてきた彼の作品は、平易なものでも実に充実した構成とサウンドを有している。 「ベレロフォン序曲」(1968年)はまさにその典型であり、小編成でも演奏可能な設計にして演奏困難なフレーズは見当たらない一方で、各楽器の音色や特性を生かしたソロやソリを散りばめるなど、なかなかよく考えられた作品である。さらに打楽器ソリや Timpani ソロも配してダイナミックなコントラストを描くなど、この規模と難度の曲においてこれほどの創意工夫が盛り込まれた楽曲は少ない。 曲の内容としては、ベレロフォンの英雄伝説を描写的に辿っていくというより、神話のさまざまなエピソードを1枚の絵にまとめたという感じだろうか。 「この序曲は短い序奏の後14小節目に現れる、コルネットによる静かな主題の変奏・発展の連続を、1つの楽曲としてまとめたものである。比較的楽器経験の少ない奏者の技術的な限界に配慮しつつも、きちんとした様式を守って、現代(20世紀)的な作風で書かれている。」
-スコア所載の作曲者ホエアーによるコメント
■楽曲解説

Timpani の一打にリードされた低音楽器の打ち込みで毅然と開始、ファンファーレ風のTrumpet のフレーズから堂々たる序奏部が形成される。 闇に引き込むような低音のフレーズに不気味な Clarinet のトリル。不幸な事故が原因で故国を去ることとなった、或いは傷つき荒野を彷徨う最期となったベレロフォンの運命を象徴するかのような、暗鬱な音楽が始まる。 Cornet ソロ(14小節目から)の奏でる哀歌に、

Trombone の美しいハーモニーによる伴奏が加わってきて、木管楽器が哀歌を繰り返す。

哀しい雰囲気はそのままに、徐々に高揚し緊張を高める頂点で、一気に視界が開け Horn の凱歌とともに Rather fast -exact (♩=120) の主部となる。先行する Trumpet にカノン風にTrombone が続くリズミックな楽句と、柔らかく幅広いフレーズとの対比が印象的である。

ここではやや華やいだ楽想となるが、ほどなく Chime の響きとともに陰が差す。
不安げなフレーズに続き、急き込むように8分音符の楽句が織り上げられ、エキサイティングで華麗な Percussion ソリに突入するのだ。


これを締めくくる Gong の鮮やかな一撃の後、一旦静まって Trombone のソリから始まるクライマックスへ。
まさにペガサスに跨り天を駆けて活躍する、ベレロフォンの勇姿がイメージされる部分である。軽やかに空を舞う美しい勇者と白馬は気品も失くすことはない。 これを濃密なサウンドで終うと、再び静まって憂いに満ちた旋律が木管楽器に現れる。
これが4声のカノンとなり、楽曲をさらに充実したものとしていくのである

冒頭部分が再現されてブレイクすると、Timpani の劇的なソロに導かれ、いよいよスケールの大きな音楽が奏され終結部を迎える。

3/4拍子の1小節を1つにとる、重厚で輝かしい楽想はまさにベレロフォンへの讃歌であろう。高らかな Trombone のファンファーレも耳に残る。 サウンドの輝きと重厚さを一層増しコーダに突入してからは、圧倒的な盛り上がりのまま ”Press forward” の表示通り、一気に劇的なエンディングへと突き進んでいく。
■推奨音源
存在する音源はたった一つ、しかもアナログLPのみでCD化されていない。

飯吉 靖彦(汐澤 安彦)cond.
フィルハーモニア・ウインド・アンサンブル 神経の行き届いた、とまでは言えないが誠実で手堅い演奏。
得難い、貴重な録音であることは間違いない。
コーダの”Press forward”の表示に対しては、最終3小節で思い切ってテンポを速めて曲を締めくくっているが、最後までテンポを速めない演奏も堂々としてまた良いものではある。
-Epilogue-
音源の入手も困難な現況では、往年の吹奏楽ファン以外はこの曲に接したことがないだろう。既述の通り、純粋な音楽としての面白さを盛り込むべく工夫が凝らされた佳曲であり、忘れ去るには惜しい。
そもそもポール・ホエアーの作品全般がもっと評価されて然るべきと思われてならない。
<Originally Issued on 2010.3.31. / Revised on 2023.12.3.>
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