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ロベルト・シューマンの主題による変奏曲

更新日:5月16日

Variations on a Theme of Robert Schumann

R.E.ジェイガー  Robert Edward Jager   (1939- )


-Introduction-

1975年の来日時、インタビューにて「(作曲した) あなた自身一番好きな曲は?」と尋ねられたロバート・ジェイガーは「それは、父親に『どの子供が一番好きか』ときくのと同じようなものですよ。」と苦笑しつつ、「多分ね…」 と熟慮した上で3つの曲名を挙げている。

それが 「ダイアモンド・ヴァリエーション」「吹奏楽のための交響曲 (第1番)」 と、この 「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲」 (1969年) であった。

数々の名曲を発表し人気作にも恵まれたジェイガーだが、その中でも 「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲」 は演奏機会の少ない地味な存在に思える。しかし作曲者本人もお気に入りであるこの作品は、まさにジェイガーの魅力を満載した楽曲なのである。

 

【出典】  バンドジャーナル 1975年6月号

   尚、本楽曲については「ロバート・シューマンの主題による変奏曲」という邦題が一般化しているが、

   逆に Robert Shumann 自体の邦訳は「ロベルト・シューマン」が圧倒的に流布していることから、本稿

   では「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲」を採った


■変奏主題=「楽しき農夫」

ジェイガーが前年に作曲した「ダイアモンド・ヴァリエーション」は ”テーマ” (=イリノイ大学の応援歌) が終始形を成して現れることがないという特徴的な変奏曲であったが、この曲はロベルト・シューマンのピアノ曲「楽しき農夫」をテーマとしたオーソドックスな変奏曲と云える。そしてアプローチの異なる二つの変奏曲が、ともに大変素敵な作品となっているのが興味深い。

ジェイガーが変奏主題に選んだ「楽しき農夫」はドイツ・ロマン派を代表する作曲家ロベルト・シューマン(Robert Alexander Shumann 1810-1856)が1849年に出版したピアノ曲集「こどものためのアルバム」(Jugendalbum op.68)の中の1曲である。

この曲集は、もともとシューマンが彼の長女マリー7歳の誕生日に贈り物として用意した数曲を核に、徐々に作品を加えて「クリスマスアルバム」としたのが原型という。その後更に曲を追加・変更し改題もされ、”小さい子らに” ”もっと大きい子らに” の2部に分かれた全43曲から成る曲集として出版された。

「こどものためのアルバム」は父親となったシューマンの温かいまなざしが感じられる傑作にして、後世に亘る世界的な音楽教育に測り知れない役割を果たしたと評される。


さまざまな小楽曲がそれぞれの魅力を放っており、題材そのものも 「兵士の行進」 「サンタクロースのおじいさん」「朝の散歩」 などイメージしやすく、子供向けにアレンジされた判りやすい楽曲が並ぶ。

聴いていても ”シンプルな音楽”として魅力にあふれた、とても楽しいものである。


 ※左画像:リコ・グルダ(Rico Gulda / Piano)による全曲収録CD



「楽しき農夫 ( Frohlicher Landmann )」は「こどものためのアルバム」第1部 ”小さい子らに” に属

する第10曲である。この曲集のみならずシューマンのピアノ曲を代表するものとされる1曲だ。 

”さわやかに元気よく” との指示があるこの曲の原題は「仕事を終えて帰る楽しげな農夫」であった。のびのびとした旋律にリズミックな伴奏をあしらい、表題通り楽しげな

”足取り” を想起させる。 

一日の仕事をなし終えて向かうは家族の待つ自宅か、はたまた酒場か…

いずれにしろ洋の東西を問わず、また現代でも全く不変のあの浮き浮きした気分が充満した、実に陽気で愉快な佳曲なのである。

 

 ※尚、「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲」 という楽曲としては、シューマンに評価され後押しされたあの

  大作曲家ヨハネス・ブラームスと、シューマンの妻にして才色兼備の名ピアニストであるクララ・シューマンと

  が、それぞれにピアノ曲を作曲している。

  双方ともシューマンの「色とりどりの小品 op.99」第4曲の主題による変奏曲である。

  クララは1853年のシューマンの誕生日にこの変奏曲を贈り、不眠や幻聴に悩む夫を励ました。一方、ブラームス

  は翌1854年に入水自殺を図りそのまま精神病院に入院したシューマンのために作曲し、シューマンに対する敬意

  とクララに対する慰めを込めて献呈している。

  どちらも落ち着いた美しさとともに、熱い情念の感じられる曲となっているところに共通点を感じさせる。

 

【出典・参考】

  「名曲解説全集」(音楽之友社) -執筆者:芹沢 尚子

  萩谷 由喜子によるクララ・シューマン楽曲解説(CD/Octavia B004V6XZCO)

  和田 真由子によるブラームス楽曲解説 https://enc.piano.or.jp/musics/1541


■楽曲解説

曲は主題と6つの変奏曲、コーダから成る。

 

✔主題 ”楽しき農夫” Moderato e semplice (♩=80)

Trombone のリズミックでハーモニアスな伴奏を従え、Alto Sax. が「楽しき農夫」の旋律を提示して始まる。本楽曲では Alto Sax. に重要なソロが何度も現れるので、どうしても優れた音色の歌心あふれる名手が欲しい。

これに Tuba のベースラインと Piccolo のオブリガートが加わって繰り返されるが、最低音楽器と最高音楽器が同時に入ることで、一層微笑ましい楽想を醸し出している。


✔第1変奏 L'istesso tempo

  “ ハイドン風のスタイルで各楽器のソロに配置された主題 ”

旋律が Fagotto そして Oboe へと移り変わり、Flute と Clarinet がこれを彩る。さながら室内楽の如き典雅さが素敵であり木管楽器の味わいに惹きつけられる。特に Fagotto は旋律でも伴奏でもこの楽器の魅力を存分に発揮している。

他の楽器も加わりやや厚みを増して高揚するが、ほどなく Fagotto に旋律が戻り、再び室内楽的な響きとなって最初の変奏を結ぶ。


✔第2変奏 Allegro vivace (♩=152)  ” Flute の奏するスケルツォ的な主題の輪郭 ”

アウフタクトから始まる Flute ソリによる変奏、アウフタクトが頭拍であるかのようにも聴こえるユニークな楽句でスタートだ。これを受け継いだリズミックな音楽は一気に高揚し意気軒昂で活気に満ちたギャロップ風の曲想となる。途中に挿入された Tuba 2本の掛け合うソリはとてもユーモラス!

目まぐるしく切り替わるダイナミクスも印象的で、まさに ”スケルツォ” な変奏曲だ。

 

✔第3変奏 Andante sost. (♩=80)  ” メロディアスで音程の跳躍が特徴的な変奏 ”

快活な前変奏から一転、律動感も感情も抑制された変奏。Fagotto のソロに始まり、たおやかな Oboe ソロへと受け継がれていくが、これに応答し伴奏する Clarinet の繊細さが心に響く。このシ-クエンスがダイナミクスや色を変えながら反復されていくのだが、ダイナミクスが大きくなっても終始沈着さを失わぬ不思議な音楽である。


各楽器それぞれの音色が実に映えているのが印象的で、Vibraphone やドラの醸すサウンドも、終始ミステリアスなこの変奏に極めて似つかわしい。


✔第4変奏 Presto (♩. =160)  ” リズミックさに重点を置いた自由な変奏 ”

また一転、遠くなる Oboe ソロの残響を断ち切って、突如 Presto で連続する3連符が上向し高揚するエネルギッシュな変奏が始まる。打楽器も加わって各楽器がモチーフを拮抗した応答を奏し緊迫感を漲らせると、再び最初の三連符の高揚が戻りこれを中低音が二拍三連で畳みかけて鮮烈に吹き切って終わる。


まるで嵐のような変奏の中で、ダイナミックに活躍する Timpani が聴きもの。


✔第5変奏 Andante sost. (♩=64)  

” メロディーラインを変形したラプソディックな変奏 ”


全合奏の激しい高揚の余韻が収まり、Alto Sax. の甘美なソロが歌いだす。


Fagotto を初めとする木管楽器の伴奏は各楽器の音色を巧みに生かしており、とても味わい深い。全曲の中でも最も魅力的なこの変奏は、幻想的な美しさと蕩けるようなロマンティックさの極致である。旋律がハーモナイズされ Flute を中心とした清らかな響きで奏されると

Horn の抒情を尽くした対旋律がこれを彩る。

これほどに感動的なのは Horn の醸す音色ならではだろう。


やがて繊細な硝子細工の如き美しい Clarinet ソロ-

そして伴奏する Sax. + Vibraphone はグラスハーモニカのような天上の響きだ。


感情の昂ぶりを表し木管の低音が朗々と歌った後はまた Clarinet ソロが戻り、更に最初のAlto Sax. ソロを呼び戻していく。

Flute の上向楽句に各木管がこだましながら、静かで幻想的な余韻を湛える。


✔第6変奏  Allegro con brio (♩=152)  ” 主題のリズミックな変奏 ” 突如覆っていた幕が落ち、ライトが一斉に灯ったかのような眩いサウンドに圧倒されるオープニング! ダイナミックで熱烈な音楽は生命感に満ち溢れている。序奏部が鎮まって主題が Clarinet に現れ、

変拍子で軽快自在に奏されていくのに続き、今度は主題が音価を拡大して低音楽器で奏され徐々にせり上がり、シンコペーションの応答する鮮やかな頂点を迎える。


これがブレイクとなって少し緩めた優雅なワルツ風の変奏へと遷る。その変拍子を効かせた洒落た楽想が何とも素敵なのだ。


アッチェレランドとともに高揚すると響きわたるドラから短いブリッジを挟み、再び快速な変拍子の変奏に戻って、徐々にバッキングとサウンドを厚くしながらクライマックスに向かう。そこでは Horn + Trombone の絢爛華麗なベルトーンが、さながら夜空を彩る祝典の花火を描き、いよいよ目まぐるしい変奏は終結へ進んでいくのである。

興奮冷めやらぬ G.P. の後に Adagio (♩=48)となり冒頭の Alto Sax. ソロによる主題を再現。- これを受継ぐ Oboe が名残惜しげに遠くなるや、一気呵成のコーダ(Presto ♩=160) に突入する。

エキサイティングな Timpani ソロ

に続いて重厚なバンドサウンドが鳴動、Timpani の16ビートを伴った fp クレシェンドから華々しく最後の一音を放ち、全曲を締めくくる。

 

■推奨音源

音源は非常に少ない。作曲者による自作自演が断トツの推奨盤。

ロバート・ジェイガーcond.

東京佼成ウインドオーケストラ

さすがに要求されるテンポやニュアンスが的確に示され、楽曲の魅力を発揮した好演である。実にのびのびとしてダイナミックレンジも広く、スケールの大きさを感じさせる。

 

 

 


 


 

【その他の所有音源】

エドワード・ピーターソンcond. ワシントン・ウインズ

スティーヴン・グリモcond. アメリカ空軍西部教育訓練部隊吹奏楽団


…しかし、である。この珠玉の作品には、他にも素晴らしい演奏が残されていいのでは?

推奨盤としたジェイガー自作自演でも、テンポの速い変奏についてはよりシャープな切れ味が期待される。もっともっと素敵な、感動的な演奏が生まれて然るべきという気がするのだ。

各楽器の特色や機能を活かしたソロ、ソリを随所に織り込んだ多彩さには魅了されてしまうし、変奏曲ごとのコントラストや場面転換の鮮烈さも出色である。また抒情性やエキサイティングさ、輝きといったものが生み出す魅力がとても深い上に、そのいずれもが終盤のクライマックスに向け更に濃くなっていくようセッティングされていることも感じられるはずだ。


洵によくできた作品である。部分部分に煌めきのある曲はそこそこあるが、こうした構成の整った ”よく考えられた曲” というのは近年では非常に少ない。絶対にもっと演奏されて然るべき傑作である。再評価され、演奏機会の増えることを心から望みたい。-作曲者ジェイガーと同じく、私もこの作品がこの上なく好きなのである。


-Epilogue-

私は社会人になって最初に籍を置いたバンドで、この曲を演奏した。

その半年前の演奏会直前に団員同士の揉め事が発生する-その影響は収まらず本番自体は何とか終えたものの、打楽器パートは全員退団、そしてそのトラブルを憂い創立以来指導されていた常任指揮者も離脱した。

歴史のあるバンドであったが、まさに沈没寸前となって更にメンバーが離脱していく。

 

副指揮者を務めていた私は、団長さんをはじめとする皆と力を合わせて再建に取り組んだ。何とか新たな常任指揮者の招聘にも成功し、打楽器も我が学生時代の後輩たちをはじめとしたエキストラで何とか揃えた。さまざまな制約に悩まされながらも、この「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲」をメインプログラムに据え練習を重ねていく。もちろん非常事態ゆえに演奏会を取止めるという選択もあり得たわけだが、我々は沈みゆくこの船(楽団)を救うには、何が何でも演奏会をやり続けることだと頑なに信じたのである。

 

そして迎えた演奏会本番-我々は逆風を跳ね返し、演奏面でもまた一つ進歩できたと思う。危機感が残ったメンバーを強く束ねたのか…「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲」の最後の一音ではこれまでに奏したことのない充実したサウンドも示すことができた。

打ち上げの席では、団長さんと抱き合って泣いた。愛するこのバンドをこれからも続けることができる…人生の中で、これほど嬉しい瞬間はなかったかもしれない。私はそのバンドを全力で愛し情熱を注いだ-。


▼▼▼

そんな私もまた、その後僅か2年ほどで愛して已まぬはずのこのバンドを飛び出す結果となってしまった。きっかけは私のとある失敗だったのだが、それ自体よりもその際に自分がすっかり疎まれている現実を認識させられたことが要因だ。それまでにも疎まれているのが徐々に色濃くなっているのを感じてはいたが、それがハッキリしてしまった。

例えば同じ問題に苦悩する、同じ団員であっても、●さんは可哀相だが私は全然可哀相じゃない-周囲はそう思っているということを突きつけられてしまったのだ。

 

全ては自業自得、そもそも疎まれた原因は一重に私の「甘え」の積重ねにあったと今は自覚している。若造ではあったが、既に充分大人でなくてはならない年齢だった。「全力で誰よりも懸命にやっている」「この人のことを心からリスペクトしている」「大事に想い、心を尽くしている」といった主観は何をも免罪しない。こうした主観に寄りかかって然るべき配慮を欠いたり、自分の欲に任せて行動したりということは許されない-それがあるべき大人の世界なんだ、と本当の意味で気付いたのはずっと後になってからだった。

 

当時は単純に、届かぬ愛の悲しみに耐えられず私は心から愛していた楽団を辞めた。その烈しい痛みは過去に経験した痛恨の失恋と酷く似ていたが、原因も同じだった。振り返ってみれば、私はまたもや自らの「甘え」に起因する失敗を繰り返してしまっていたのである。

 

▼▼▼

それももう30年ほども前の話だ。

しかし「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲」の最後の一音…それを聴くと人生最高の喜びそして最悪の絶望とが同時に、今でもふっと甦ってしまう。

この曲は素敵な音楽の感動とともに、時として複雑な想いを私の中に交錯させるのである。



     <Originally Issued on 2015.4.14. / Revised on 2022.9.18. / Further Revised on 2023.12.22.>













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