Folklore for Band J.A.コーディル Jim Andy Caudill (1932- )
-Introduction- 1964年出版の往年の名曲だが、アメリカの大手出版社ハル・レナード社は2008年に再販新譜としてこの「吹奏楽のための民話」をリリースしている。これは日本市場を睨んでの再販なのだという。
それもそのはず、この曲は日本で1960-1970年代には圧倒的な頻度で演奏された吹奏楽曲で、「民話」「バン民(”バンドのための民話”の略)」の通称で広く親しまれ、当時吹奏楽に係った人なら誰もが知っているはずの曲だからである。
しかも、2022年においても吹奏楽コンクールで21団体が自由曲として採り上げる(出典:吹奏楽コンクールデータベース)など、現在でも相当演奏されているのだ。
■作曲者と楽曲概説 ”技術的には易しく、演奏効果が高い” ゆえに評価された楽曲だと思うが、何といっても最初に現れる Clarinet の低音域で歌われる旋律- これが魅力だったのではあるまいか。
ジム・アンディ・コーディルは 「ランドマーク序曲」「ヘリテージ序曲」「オデッセイ序曲」など、一貫してスクールバンド向けの技術的にも内容的にも平易な吹奏楽曲を提供してきた作曲家だが、「吹奏楽のための民話」はその中でも群を抜いて支持を集めた作品である。
その旋律は教会旋法を用いて中世風のムードを感じさせるとされ極めてノスタルジックなのだが、一方でこれを彩る伴奏は大変リズミックであり、その対比が興味深い。
題名の ”Folklore” は ”民話” のみならず広く ”民間伝承されたもの” を指し示す言葉であり、コーディルは作品を受け容れ易い音楽としつつも、その意図を確りと伝えることに成功したといえよう。
■楽曲解説
堰を切ったように始まる序奏部-。
曲中でも場面展開に使用されるエキサイティングな楽想である。鮮やかな Cymbal の一撃でエキサイティングな曲想が覚醒するのだが、ここは4/4拍子の表記ながら実際には3/4 - 3/4
- 2/4 - 4/4 - 3/4 - 4/4 - 3/4 - 4/4 - 3/4 - 2/4 - 4/4 …といった拍子進行を感じさせるもので、とてもユニークである。
またこの序奏部は Snare Drum の快活なリズムとともに鎮まってゆき、主部もこれを受け継いで小気味よい Snare Drum のリズムを従えて歌いだされるのが実に心憎い。
Clarinetのノスタルジックな旋律(前掲)をこのリズムこそが盛り立て、音楽に生き生きとした生命感を与えていることは見逃せない。
尚、この Clarinet の旋律は Tenor Sax.+Baritone (Euphonium) も同奏しているのだが、あくまで支えに回ってもらい、ここでは何といっても Clarinet シャリュモー音域の黒々艶々とした美しい音色を存分に堪能したい。
中間部は木管による美しい旋律が提示され、後に金管群に引き継がれていく。
そのしみじみとした味わいもこれまた日本人好みなのかも知れない。
そしてコンパクトな再現部を経て、エキサイティングなコーダへ。
たちまちのうちに音圧とスピード感を高揚させ、一気呵成に曲を締めくくる。
実にシンプルな楽曲構成だが、潔く爽快である。
■推奨音源
広く人口に膾炙した割に、長い間録音の少ない作品であったが、中高時代にで吹奏楽に親しんだ世代の回帰/回顧のムードや、前述の通り楽譜が再販されたことを受けて近年音源は一気に増えた。
私としては最初の旋律で Clarinet の音色を存分に聴かせていることを重視しつつ、以下をお奨めしたい。
汐澤 安彦cond.
フィルハーモニア・ウインド・アンサンブル
粗さもなくはないが、テンポやコントラスト、ダイナミクスの変化など楽曲の演出面は積極的であり、一つの理想を示す。
どうしたら面白く聴かせられるか?への腐心が看てとれる好演。スピード感溢れる音色と爽快感も魅力。
兼田 敏cond. 東京佼成吹奏楽団
冒頭と終結部の重厚なサウンドは充実感にあふれており、全体にも非常に骨太な「民話」を聴かせている。
北原 幸男cond. 大阪市音楽団
たいへん綺麗に整った演奏。
旋律の美しさやノスタルジー、この曲のシンプルな良さが充分に伝わる好演。
【その他の所有音源】
フレデリック・フェネルcond. 東京佼成ウインドオーケストラ
山田 一雄cond. 東京吹奏楽団
丸谷 明夫cond. なにわオーケストラルウインズ [Live] 木村 吉宏cond. 広島ウインドオーケストラ
汐澤 安彦cond. 東京吹奏楽団
加養 浩幸cond. 航空自衛隊西部航空音楽隊 飯森 範親cond. 東京佼成ウインドオーケストラ [Live]
※出版社 Hal Leonard 社デモ音源は上記 木村 吉宏cond. 広島ウインドオーケストラと同一
-Epilogue-
歴史の中で不朽のものと評価されるクラシックの名曲とは異なり、吹奏楽オリジナル曲の多くは、「正しく」「美しく」演奏されるだけで輝きを放つのは難しい。残念ながら「吹奏楽曲」の太宗は、クラシック名曲に比肩する音楽的内容は備えていないと言えるだろう。
( 楽曲は自分で演奏することで ”特別なもの” になるので、演奏参加型の音楽である吹奏楽の曲においては、「演奏したことがある」という体験が聴き手=演奏者に ”感動” をもたらしやすいという事実はあるのだが…。)
しかし、音楽は「演りよう」である。
楽曲の魅力を如何に捉えるか-それが掘り下げられセンス良く演出されたとき、そして指揮者を含めた奏者の情熱が篤く向けられたときに、音楽は想像以上の輝きを示す。-それが「感動」である。
この「吹奏楽のための民話」も、正しい音程・美しい音色・揃ったリズム・適正なバランスといったプリミティブな音楽的要素だけではなく、それを超えた ”プラスアルファ” が加わることなしには、輝くことなどない楽曲だと思う。
「楽譜を音にした」-その先こそが見たい、聴きたいのだ。それは、実は如何なる名曲であっても同じである!
「”プラスアルファ”=演奏者の想いに基く音楽への味付け・個性といったものが感じられない演奏」は、「音程・音色・縦の線・バランスなどが整わない演奏」と同等に良くないのだ。つまらない、罪深いとさえ言ってもよいと思う。そのような演奏を、決して良しとしてはならぬのである。 ※もちろん確固たる意思の下、敢えて「何もしない、素で」を貫くという演出はありうる、為念。
このことは演奏者としてはもちろん、音楽の聴き手としても常に意識してシビアに追求すべきことなのだと思う。(改めて「吹奏楽のための民話」を聴きこみ、多くの音源を聴き比べてみて、今更ながら痛感させられた。)
<Originally Issued on 2008.9.25. / Revised on 2022.10.5. / Further Revised on 2023.11.3.>
Comments