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瞑と舞

hassey-ikka8

更新日:2024年5月17日

Meditation and Dance      池上 敏 Satoshi Ikegami (1949- )


-Introduction-

犀利にして深遠-1970年に作曲され、1971年のJBA作曲賞を受賞した本邦の誇る吹奏楽オリジナル屈指の名曲の一つである。

20世紀前半の多くの秀作からの、多くのアメリカ産の吹奏楽オリジナル作品からの影響が露でありすぎる、という反省点はある」との作曲者コメント通り、例えばジョン・バーンズ・チャンス作曲「呪文と踊り」を彷彿とさせるところがあったりするのは事実だが、この楽曲がより現代的でチャレンジングな手法を用い、また鋭い感性で唯一無二の世界観を構築していることもまた紛れもない事実である。


 ※本稿に掲載のスコア画像は全て1971年版のもの


■楽曲概説

漆黒の全体色の中に生じる多彩、現代的な音響が醸す古代の雰囲気、野性と神秘の同存、本能的なのに知性的、ループする ”個” と ”群” の集散、躍動と沈静、西洋音楽の手法で描かれる日本の感性-。

対照を成す要素がさまざまに共存するこの楽曲は、実に多元的である。そしてその多元性が底のつきない深みを生み出している一方で、一つの楽曲として見事に集約し、完結した世界観を構築しているのが凄い!沈着静謐な序と終結とに挟む形で凄絶な熱狂を織り込む対比構成は明確であり、そのように楽曲を大づかみできることが劇的感動性を高めているのだが、決して ”単純” ではない。-その ”Cool” さは近時の吹奏楽オリジナル作品ではまず見られないレベルだ。


作曲者・池上 敏 自身は

「題名については、さしたる意味はありません。何となく気の利いた題名がほしかっただけで、ことさらに ”日本的” とか ”東洋的” な意味合いを持ったものでないことだけは確かです。」

と述べており、具体的なイメージを持って作曲したものではないようだ。


だが、この曲は私に次のようなイメージを抱かせて已まない。


…暗闇に眠る龍とそれを呼び醒ます巫女、民衆。古代宗教的な儀式か祭礼か-岩舞台にはしめ縄と真白の御幣が張られ、暗闇に煌々と松明が揺れる。

踊り謡う巫女に覚醒させられた龍神は神酒を食み、舞い始める。酒を食む龍の眼は鋭く、この龍を民衆は畏怖する。その動きはぬめぬめとして生命感に満ち、酒を食んでは舞い、舞っては酒を食む。



緩急を繰り返しながら、その舞は一層激しさを増していき、遂にクライマックスを迎える!龍は大きく口を開く!燃えるように紅い龍の口、民衆の歓喜と湧き起こる歓声!!

やがてしたたかに酔った龍の動きが静かになる。再び呪文が唱えられ、龍の動きはますますゆっくりとなり、塒を巻いていく。龍の瞬きは多くなり、視線は緩む。

ほどなく静かに眼は閉じられ、最後まで揺れていた龍の尾も静かに動きを止める。

神なる龍は再び永い眠りについたのだ-。 

                            (画像:香川県高松市「田村神社」)


池上 敏 による作曲経緯の回想によれば、1970年の作曲時にJBA作曲コンクールの時間制限 (6分)という制約があったため、構想に随分と苦慮した様子が窺える。

多くのアイディアを割愛して生まれたであろうこの楽曲は、1977年に大幅な改訂が実施 ( 後述する全日本吹奏楽コンクールでの富田中の演奏はこの1977年稿によるとみられる )され、また1995年に更なる改訂を加えて決定稿が完成された。

いずれも加筆し分量拡大する改訂が重ねられたのは、経緯からすれば必然と云えよう。


■楽曲解説

「曲は、序奏と終結部を持った三部形式。

序奏 (A-B) =主部 (C-D-C)=終結部 (B-A)。見方によっては、 Dの部分 (フガート) を中心としたアーチと、とることもできると思いますが。」

 

「主題材料は最初にピッコロに示された12音列的な動機 (4,5小節で完全な形で現れますが)に全てを負っています。曲中に出てくる線的な動機は全てこの動機の変奏、ないしは変容として導き出されています。」

 

作曲者コメント: 1971年初版フルスコアより

冒頭、神秘的な Suspended Cymbal のロールの響きの中から、Piccolo のソロが聴こえてくる。遠く、かすかな生命感を感じる、和笛のイメージがあるフレーズだ。


呪文の如き金管の ”棒の音” をバックに、生命感が抑制され緊張感を湛えた、透明な木管のアンサンブルが続く。Clarinet・Fagotto・Flute・Oboe と受け継がれる音色の対比が洵に素晴らしい。


やがて Allegro assai に転じ、打楽器のアンサンブルが遠くから聴こえて密やかに舞が始まる。聴く者は緊張感と神秘性が充満する中で、研ぎ澄まされていく興奮に巻き込まれていくことだろう。


ここでは神へ祈りを奏上諷誦するが如き Bass Clarinet と Baritone Sax. の歌とそれに呼応する Trumpet が現れる。この木管低音のソロは、音色配置的にも実に個性的で出色である。


さらにテンションを高めて打楽器の一撃とともにテュッティとなり音楽は激しく舞う。


主部であるこの Allegro assai は静動を繰り返しながら展開するのだがその対比が見事で、「静」

の部分では Bass Trombone をはじめとした各楽器の音色が効果的に発揮されている。

その感覚の鋭さ、センスの良さに感嘆させられる。








音色配置という観点からは、Trombone のペダルトーンや Horn のゲシュトップが全編に亘り重用され、素晴らしい効果を挙げているのだが、それが弱奏部だけでなくエキサイティングな主部でも鮮烈な印象を与えていることはまさに刮目すべきところである。

(作曲者からは「Trombone のペダルトーンや Horn のストップ奏法では充分バランスに注意してください」との指示がある)


楽曲が最高潮に向かう前には、一旦静まりフガートが配される。この構成感も素晴らしい!

ここで木管楽器の音色とアンサンブルをクローズアップした後、今度はフガートの断片が金管楽器も加えて応酬され、再び激しさを増す踊りは遂に全曲最大のクライマックスへと突き進むのだ。


…それこそは壮烈なるレシタティーヴォ!


神を讃える地鳴りのような民衆の熱狂、叫び声が、まさにごぉーっという集約感のある音響で示され、劇的さが胸に迫る。

この場面での日本的なニュアンスを持つ打楽器の使い方も実に素晴らしい。

 

そして舞の終結を告げるTrumpetとBass Drumの強奏が響きわたり、音楽は Lento へと帰り静けさを取り戻す。

 

また深い深い眠りへと落ちていくのだ…。


遠のく意識を表す如く、断片的になっていく終末の Piccolo ソロのバックには、Tromboneのペダルノート3音(B♭, A, G#)+ Bass(G)の異様な音響が在り、消えゆく Piccolo の最後の一音に gliss down するバッキングが残響して、全曲が閉じられる。


■推奨音源

音源としては初版稿(1971年版)、及び決定稿(1995年版)がそれぞれ録音されている。

[ 1971年稿 ]

木村 吉弘cond. 広島ウインドオーケストラ

本楽曲誕生時の姿を端的に表す。

初版では 「間 (ま)」 というものが一層重要視されていたように感じられる。

尚、Piccolo ソロのバックに鳴るトライアングルは全体の雰囲気に照らせば違和感あり、後にドラ (ビーターで擦る) に変更された改訂は如何にも然り。





[ 1995年・決定稿 ]

金 洪才cond. 東京佼成ウインドオーケストラ

クライマックスへの部分など、より”道行き”も充実させた改訂決定稿により、この曲の有する世界を表現した好演。

Allegro assaiはストイックにコントロールされた印象。






全日本吹奏楽コンクールでも神居中、伊丹東中などがそれぞれに名演を聴かせてくれているが、私にとってはこの曲との出会いとなった1977年の富田中(「邦人の富田」!)の演奏が印象深い。

中学生離れした鋭敏な感性の示された演奏で、移ろいゆく木管のソロはもちろん、テュッティ強奏での集約感、そして Allegro assai に現れる Trumpet のカウンター(左上画像)で示された細やかな抑揚など、随所に多彩なニュアンスを感じさせる「表現」溢れる好演。示された世界観に強く惹きつけられた。


-Epilogue-

「瞑と舞」はとてつもない名曲である…!  私はもう本当に強烈な魅力を感じる。

ダウンエンディングが流行らないからなのかコンクールで採り上げられることもなくなり、楽譜の入手が困難なこともあって、近年演奏機会が減少していることは非常に残念だ。この曲の楽譜はレンタルにこだわらず、販売譜の取扱いを復活することも検討してほしいと願う。


ところで、この曲について 「中学生にふさわしいレパートリー」 といった奇妙な見解が流布しているようだが、これは見当違いも甚だしい。


まず第一に本作品の内容、妙、真価というものを理解できていないのだと思う。構成がつかみやすいからなのか、何を誤解しているのか知らないが本作の要求するニュアンスの深さ、音色を含めたソロへの要求水準の高さなどだけでも直ぐに 「この曲、タダモノではない!」と気付きそうなものだが…。

本作の内容に真摯に向き合い、掘下げた演奏ができたならば、とてつもない音楽的満足が奏者・聴衆の双方にもたらされることだろう。そしてそれには大人にこそ挑んで欲しいと思う。


第二にそういうことを口にする者は、音自体や表現力といったものを含めた中学生の演奏能力・可能性をなめているのではないか、と私は思っている。

中学生の「可能性」は本当にそら恐ろしい!そのことは過去の中学生たちが遺した名演が饒舌に物語っているではないか。それが引き出せないのは指導者に能力がないだけのことだという認識こそを持つべきである。


この傑作が確りと再評価され、本作の ”表現” に挑むバンドが再び多く現れることを期待したいし、私自身もいつの日にかきっと挑んでみたい。



<Originally Issued on 2006.6.13./ Overall Revised on 2014.4.27. / Further Revised on 2023.11.11.>





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