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祈り  佐村河内 守 (新垣 隆)

Prayer ”INORI”  Takashi Niigaki  (1970- )


-Introduction-

実に数奇で不幸な運命となった作品である。

本作品は2012年、東京佼成ウインドオーケストラが本邦クラシック音楽界の新たな才能に委嘱した意欲作- であるはずだった。

 

■「佐村河内 守」事件

✔顛末

聴覚障害がありながら人気ゲームの音楽の作曲から頭角を現し、交響曲に至る多くのクラシック作品も評価を得、オリンピックの舞台でフィギュアスケートの伴奏音楽として採用されるなど、さまざまな意味で当時最も注目され文字通り時代の寵児となっていた作曲家 「佐村河内 守」は2014年2月に虚像であったことが明らかになった。

”属性” が虚像であったどころか、この人物は作曲家を名乗りながら作曲はしておらず、作品はほぼ全てが 新垣 隆 という全く別の、現代音楽を本業とする作曲家の創ったものであったというのである。

 

この事件は音楽を 「芸術」 として、あくまでそれ自体の絶対的価値のみを見つめることを標榜していたはずのクラシック音楽においてすら、そうした概念がやはり曖昧なものであることを露呈した。(日本人の特性がそれを増幅した側面もあるかもしれないが…。)

全ての嘘が判明した途端、「佐村河内 守」の音楽に対する礼賛は消失した。詐欺の側面のみが取り沙汰され、激しい批判は続き、まさに手のひらを返したように音楽自体の価値も完全に否定されたように思えてならない。

 

✔本質的な問題

…しかし、もし「佐村河内 守」の ”音楽” に感動した自分がいたとしたら、それは消すことのできない事実であるはずではないだろうか。

 

この事実を否定するとすれば、「佐村河内 守」を取り巻く特異なシチュエーションが楽曲の感動にすり替わっただけなのか、或いは「感動しなければ人間じゃない」とか「感動したふりをしなければ」といった強迫観念が生じたとでも云うのだろうか。

いずれにしても、そんなものに囚われること自体がそもそも音楽に対する冒涜であり、そんな人は元々音楽を愉しみにするにも価しない。別にクラシック音楽に限らず、どんなジャンルの如何なる音楽であろうと自分が良いと思う音楽を聴き楽しめばよい- ただそれだけのことなのだから。

 

この一連の事件から改めて我々が認識すべき最も本質的なこと- それは殊に音楽(楽曲・演奏)に関しては、真に自分自身の価値観をもって相対すべきということだ。

音楽の価値は感動、そしてその感動は他人ではなくまさに自分が感じるものだ。

「なぜ感動するか、何に感動するか」 なんて理屈はなくても良い。しかし本当に自分の心は ”感じた” のだろうか?

このことは、何もこんな大それた詐欺師の事件に直面したからではなく、常に自問自答していなければならないことのはずなのである。なのに、一体どうしてこのように手のひらを返し、音楽自体の価値も完全否定されるが如き様相を呈することになったのだろうか?

 

■私が「祈り」という楽曲に抱いた想い

出版(レンタル扱が予定されていた)も頓挫し、楽譜の入手は未だ不可能でありその研究ができない状況を前提にしても猶、敢えて本稿を書こうと決心した理由はたった一つだ。

私が「この曲が好きだから」である。あんな事件があったからといって、本作に惹かれた私の心の事実は変わらない。

 

実を云うと現在に至るまで、私は「佐村河内 守」の ”代表作”を聴いてはいない。

正直あれほど稀な属性を前面にプロパガンダしてくる、しなければならない、ということは「音楽自体は絶対大したことない=感動できるような音楽じゃない」だろうという懐疑心があったから。

慌てて聴く必要もない、まあ機会があれば…という感じであった。それでも吹奏楽作品としての第一作「吹奏楽のための小品」だけはもちろん聴いたのだが、ピンとこなかった。

 

しかし本作「祈り」には全く違う感想を抱いた。

”こんな作品はこれまでに全くなかった” という感じではない。逆にある意味非常に解り易い楽曲とも云えるかもしれない。もしかしたらだが、東京佼成ウインドオーケストラの前委嘱作「舞楽」(グランサム) に相通ずる部分も感じられるし、新垣 隆は ”吹奏楽曲”というものとそのトレンドの研究を進めたのかなとも思う。

 

だがともかく結果として誕生した作品に関して云えること、それは音楽としての説得力を持った楽曲になっているということだ。

単なる模倣ではない個性と新味を持ち、行き当たりばったりの無策さとは真逆の確りとした構成力を感じさせる、とても真っ当な楽曲なのである。

心に残る楽句や旋律、鮮やかなコントラストや高揚感にあふれたこの曲は、聴く者にとっても演奏する者にとっても、音楽の愉しさや喜びが間違いなく感じられる作品と断言したい。

それは楽曲に「伝える」ものと「伝える」力が備わっているからだ。

 

■楽曲解説

「祈り」 は演奏時間8分強、現代音楽的手法を交えながらもロマンティックな音楽であり、一つの主要旋律を展開させる単一楽章作品である。

序奏から変拍子を交えた第一部へと急速な音楽に始まった後、短調の主題が緩やかに歌われやがてそれも断片的となって静まりゆく第二部、一転テンポを速めパート間の活発な楽句の応酬で展開部となる第三部、これがタランテラ風のリズムとともに長調に転調し主題が再現されて壮大なクライマックスとなる第四部と続き、最後は冒頭を呼び戻したコーダで締めくくるという構成と俯瞰できる。

 

曲は空気を切り裂くような Trumpet の上向楽句と激しい打楽器の応答に始まる。

続く Horn のモチーフ提示とベルトーン、木管の不協和音にグリッサンドで上下するTimpani -と、緊迫の楽想が高揚するさまはマルコム・アーノルドを彷彿とさせる序奏部である。

快速な変拍子と Clarinet 低音域の黒々とした音色の凄味で始まるのが印象的な主部に入ると、ほどなく Alto Sax. に旋律の断片が現れる。メランコリックな楽想の中、旋律は全容を現すことなく音楽はエネルギーとテンポを鎮めていく。

 

漸く Oboe Solo に全容を現した旋律は哀しさに包まれている。

美しいが抑圧を感じる旋律である。これが Flute に受け継がれ、憂いを湛えつつ高揚していくのだが、ここでは木管楽器を中心とした音色対比が巧みで魅力的だ。

旋律が Horn ソロに受け継がれ、Piccolo のさえずりが聴こえてくると、音楽はいよいよ息苦しい抑圧の色を深める。運命的で敬虔な Timpani のリズムが一層の静けさへと導き、木管の最低音によって第二部は締めくくられる。

 

その木管低音から起動させエネルギッシュな展開部へ-その ”繋がり方” が素晴らしい!

ここからは一転テンポを速め拮抗したアンサンブルの応酬。現代的な打楽器と締め上げるような Horn のハイトーンが緊張感、いや逼迫感を高め実にスリリングな音楽となる。

やがて高揚する中で聴こえてくる三連符のパルス…!

これが強い意志を秘めた Horn (+Sax) のフレーズとともに推進力あふれるタランテラ風のリズムに変貌していくと、楽曲の色が変わり眩しい光を放ち始めるのだ。この劇的な展開が堪らない。

 

Tuba の2拍3連が Trumpet の伴奏リズムに切り込み、すがすがしく音楽がクレッシェンドするころには、もう音楽は輝きに満ち満ちている。

 

-そして遂にあの物憂げな、抑圧されていたはずの旋律が、長調に転じて今まさに高らかに歌う-謳いまくるのだ!

劇的な高揚の果ての感情の解放、情熱の発散が聴く者に与えるこのカタルシスは如何ばかりだろう。もう感動の一言しかない…。

  ※上譜例(テンポ ♩=160)は「推定譜」。拍子は4/4、はたまた12/8かもしれないし、アーティキュレーシ

   ョンや強弱も全くの推定である。

 

呼応する Timpani のカウンターをはじめとしたバッキングが効果的かつ格調高く、この旋律を単なる感傷だけでない感動的なものに仕上げている。

 

突き進む音楽の渦巻くエネルギーはそのままに、感傷を断ち切って冒頭の緊迫の再現へ…!

鮮烈なエンディングが感動に余韻をもたらし全曲を締めくくる。

 

■推奨音源

飯森 範親cond.

東京佼成ウインドオーケストラ (Live)

本作の音源はこの初演時 Live 録音のみ。

楽曲の魅力を充分に伝える好演。それでも「ここは自分ならもっとこう演奏したい」と考えさせるのは、楽曲の懐の深さゆえだろう。

配信によって聴くことはできないようだが、CDは相当数流通しており入手は全く困難なものではない。宜しければご自分の耳で、本作品のご自分にとっての価値をお試しになっては如何だろうか。

 

 

-Epilogue-

「佐村河内 守」 としてでなければ、新垣 隆という現代音楽作曲家が吹奏楽に接点を持つこともなかったのかもしれない。たとえ接点はあっても、前衛を離れ本作のように実際に広く演奏されるチャンスのある楽曲には決してならなかったのではないだろうか。

現在でも「佐村河内 守」の音楽は封印されている状況である。世の中をあれだけ揺るがした ”嘘” であり、決して簡単に許されるべきことでもないという感覚は私にもある。

しかし、私は数奇な運命から吹奏楽界に産み落とされたこの「祈り」という楽曲を惜しまずにはいられない。今でも私はぜひ演奏してみたい、実演を聴きたいとも願っている。


「自分が作曲した作品が、映画音楽であれゲーム音楽であれ、多くの人に聴いてもらえる。その反響を聴くことができる。そのことが純粋に嬉しかったのです。」

あくまで現代音楽に軸足を置いた作曲家として、新垣 隆は件の事件に関しこう述懐したという。

吹奏楽は ”実演” の音楽であり、そこに楽曲を提供すれば ”聴いてもらえる” だけでなく、たくさん ”演奏してもらえる” はずだ。

事件後、彼は吹奏楽作品も上梓しているが、前衛ばかりでなくそこから離れた「多くの人に聴いてもらえる」(=多くの人に演奏してもらえる)楽曲もぜひ期待したい。

新垣氏の才を以ってすれば、その範疇でありながら突き抜け感のある音楽を生み出していただけるのではと…。 

 

また、真に魅力のある楽曲を吹奏楽に提供し得る才能は、彼のほかにも眠っているのだろうか?もしそうならば、本来的に実に愛すべき性質をもったこの ”実演音楽” たる吹奏楽というジャンルに、価値ある楽曲を一つでも多く与えてはくれないものだろうか。

 -そう願って已まない。

 


      <Originally Issued on 2014.8.17. / Revised on 2023.1.10. / Further Revised on 2024.1.6.>

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