The Inn of the Sixth Happiness, Suite
Ⅰ. London Prelude Ⅱ. Romantic Interlude Ⅲ. Happy Ending
M. アーノルド 作曲 Malcolm Henry Arnord (1921-2006)
C. パルマー 編曲 Christopher Palmer (1946-1995)
-Introduction-
1958年製作、名女優イングリッド・バーグマン(Ingrid Bergman 1915-1982)主演によるハリウッド映画「六番目の幸福」(The Inn of the Sixth Happiness) の映画音楽による三楽章の管弦楽組曲である。
※標題としては「第六の幸運をもたらす宿」とも。
人口に膾炙した同映画の邦題は「六番目の幸福」
であり、そのことに照らせば本来 ”管弦楽組曲
「六番目の幸福」”とすべきとも思われるが、この
楽曲を指し示す題名としては「第六の幸福をも
たらす宿」が既に一般化しており、本稿もこれ
に従う。
「六番目の幸福」 とは中国五経の一つ「書経」洪範編に登場する”五福”を捩った言葉。
「書経」は孔子編と伝えられる中国最古=神話時代の歴史書で、理想の天帝たる尭舜らの言行録である。
そこに”五福”=寿(寿命の長いこと)・富(財力の豊かなこと)・康寧(無病息災であること)・攸好德(徳を好むこと)・考終命(天命を全うすること)が示されている。
この中国に古くから伝わる幸福の5つの要素-それに加わる「六番目の幸福」とはキリスト教がもたらしてくれる幸福を示唆するものと思われるが、映画「六番目の幸福」中の科白では「それは、それぞれが自分で探すもの」とされている。
作曲者マルコム・アーノルドは序曲「ピータールー」をはじめ、吹奏楽界でも大人気だが、次々とアダプトされ広まっていく彼の作品の中でも、本作の人気は抜群である。
メロディー・メーカーたるアーノルドらしい優美で感傷的な旋律の魅力と、ゴージャスな管弦楽で描かれる絢爛豪華さ・壮大なスケール感とが聴くものを惹きつけて已まないのだ。
■映画「六番目の幸福」
✔伝道師グラディス・エイルワード女史の実話を元にした作品
映画「六番目の幸福」は、1930年代にキリスト教(プロテスタント)伝道師として、女性の身でありながら当時欧州にとって遥かに遠い異教・異文化の地である中国に単身乗り込み、布教と現地人のための活動に力を尽くしたグラディス・エイルワード(Gladys Aylward 1902-1970)女史の実話を記したアラン・バージェス(Alan Burgess) 著 ”The Small Woman” を原作としている。
エイルワード女史が生活の全てを投げ打ってユンチェン ※1
に到着したのは1930年10月 ※2 のこと。
列強による半植民地化の進行と清の滅亡、辛亥革命=中華民国の成立、国民政府の樹立という矢継ぎ早の大混乱に続き、日本の関東軍による満州事変勃発を経て満州帝国が立ったのが1934年であり、1937年には日本が中国本土に侵入して、遂に日中戦争に突入する。
彼女はこのような困難な状況下で、貧しく遠い異国における献身的な活動に身を捧げていったのである。ユンチェンにて経営する宿屋 ※3 を拠点とした地道な布教、政府に任命された纏足廃止委員としての活動、さらに孤児の救済などに注力した彼女は、彼の地に信頼を得て確りと根を下ろした。
ユンチェンに日本軍の侵攻が迫った際、自身の負傷も省みず94人の孤児とともに山越えの脱出に成功したエピソードは、彼女の功績を象徴する美談として語り継がれている。
※1 ユンチェン
运城(Yuncheng)/ 運城とも。西安の北東、中国のほぼ中央に
位置する内陸の町であり、かの関羽の故郷として有名。
現在は山西省に属する。
※2 エイルワード女史の中国到着を1932年とする資料もある。
(纏足禁止の本格化は1930年頃からとのことで、両説とも成り
立ち得る。)
※3 中国布教の先駆者であるジニー・ローソン(Jeannie
Lawson)女史が開設し、エイルワード女史に引き継がれたこの宿の名だが、実際には ”The Inn of Eight
Happinesses" (八福客棧)であったそうで、「六番目の…」は映画化に際し名付けられたもののようである。
【出典・参考】
Find A Grave(ウェブサイト/Chris Nelsonによる伝記)
Chinese whispers : Gladys Aylward(ウェブサイト)
Christian, Bible-Based Teaching by Pastor John E. Dubler
✔映画の概要
「六番目の幸福」は前述のグラディス・エイルワード女史の実話をもとに、独中混血の中国軍将校・リン大佐というキャラクターを登場させてグラディスと彼のロマンスをストーリーに加え、ハリウッド的に映画化した作品である。
-「六番目の幸福」あらすじ-
熱意が昂じて-逆に云えば熱意のみで危険も顧みず単身中国に乗り込んだグラディス・エイルワード。
母国イギリスと比べ未開かつ非衛生的な中国の山村・ユンチェンにて、宿屋を経営しながら地道な布教を続ける彼女は、やがて纏足禁止委員としての誠意ある活動で地元民の信頼を得、ジェナイ(=博愛の人)と呼ばれるようになる。
さらに孤児たちを引き取って養育したり、刑務所における暴動を鎮め囚人の処遇を改善したりと、人道的活動にひたむきなグラディスに対する尊敬は、出自や人種の違いなどを遥かに超えて衆目の一致するところとなった。
当初彼女のことを快く思っていなかった県長マンダリンも今やすっかりグラディスに心を許し、また行動をともにするうちグラディスに惹かれていったリン大佐は、やがて彼女と恋に落ちていく。しかし、遂に中国に向けられた日本軍の侵攻はユンチェンにまで及んだ。100人もの孤児たちを守るため、グラディスは西安への脱出を図ることを決心する。日本軍の索敵を逃れ、彼らを全て引き連れて険しい山越えに挑むのだ。
戦争によって愛する友を次々と失う悲しみを乗り越え、また苦しく不安な山行を歌声とともに乗り切り、グラディスと孤児たちは見事西安への脱出に成功する!
遠くからかすかに、しかし確かに聞こえるマザーグース ”This Old Man” の歌声-。
それが徐々に近づいてきて、子供たちの力強い大合唱となる。
凱旋さながらに西安の町に到着した子供たちが市民の歓喜に包まれる中、グラディスは安堵の表情を浮かべながらも「きっとユンチェンに帰ります。」 と再び強い意志をもって宣言し、微笑むのだった。
※より詳細なあらすじと主要なシーン
✔重要な役割を果たすマザー・グースの唄
映画のストーリー展開を支えるアーノルドの楽曲は、2つの主要テーマ(「決意のテーマ」「愛のテーマ」)が全編の骨格を成し、これに中華風の旋律や、或いは危機が迫る苦難のシーンを示す音楽を交えて構成されているのだが、そこにもう一つマザー・グースの唄※
”This Old Man” が重要な役割を果たしていることは見逃せない。
This old man, he played one おじいさん 数字の 1
He played knick-knack on my thumb 親指にコツンとやった
With a knick-knack paddywhack, コンコンピシャリ
Give your dog a bone 犬に骨
This old man came rolling home ふらふら家に帰った
This old man, he played two おじいさん 数字の 2
He played knick-knack on my shoe 靴にコツンとやった
With a knick-knack paddywhack, コンコンピシャリ
Give your dog a bone 犬に骨
This old man came rolling home ふらふら家に帰った
”This Old Man”はマザーグースらしく韻(Rhyme)を踏んだユーモラスな数え歌で、歌詞自体に直接的な意味のない、いわば言葉遊びの歌である。歌詞は10番まであって、シンプルかつリズミックに繰返されとても愛らしく、またエンドレスでもある。
この歌は主人公グラディスと子供たちとの温かい触れ合いの象徴であり、困難に直面した場面では子供たちを力強く励ます。さらには脱出に成功し誇らしげに町へ入場する子供たちの凱歌として輝きを放つのである。
※マザー・グースの唄
18世紀後半よりイギリスの伝承童謡を総称してこう呼ぶようになった。
歴史・文字遊び・物語・格言・なぞなぞ・学校生活・子守唄・ナンセンス等々多岐に亘る内容で、英語圏の生
活感覚や言語感覚の機微に満ち、英語文化の基盤を成すものとされている。
代表的なものとして「ロンドン橋」「きらきら星」「ハンプティ・ダンプティ」「ピーター・パイパー」などが
あり、本邦でも数多く知られ口ずさまれている。
文学作品への引用も多く、また日常的にも「マザー・グースの唄」をバックボーンとした会話は頻繁に行われ
ていることから「マザー・グースの唄」に明るいことは英語圏文化の理解の前提の一つともなっている。
(古来から存在するものゆえ一部反道徳的な内容も含むが、過去確実にあったものの記録であり、そのでたらめ
さ奔放さも伝承され愛好されてきた理由の一つ、とする平野敬一氏意見に深く共感する。)
尚、吹奏楽界でも人気のモーリス・ラヴェル作曲「マ・メール・ロワ」はフランス17世紀の童話作家ペローの
童話集を題材にした作品であり、ここで所謂「マザー・グース」と直接の関係はない。このペロー童話集の副
題に登場した「マ・メール・ロワ」は仏語で ”鵞鳥おばさん” の意であり、これが英語で ”Mother Goose” と翻訳
されたもの。イギリスに古来より伝わる童謡が18世紀に編纂され書物として出版された際に、編者がペロー童
話集から題名借用したことにより「マザー・グースの唄」という言葉が誕生したのだという。
”This Old Man” はマザー・グースの唄としては比較的新しいものということだが、「6番目の幸福」のほか映画
では「ボーン・イエスタディ」(1993年)にも登場しており、また有名なTVドラマ「刑事コロンボ」で主人公
コロンボが口ずさむシーンがあることも知られている。
【参考・出典】
マザー・グースの唄―イギリスの伝承童謡(平野 敬一 著 中公新書)
映画の中のマザーグース (鳥山 淳子 著 スクリーンプレイ出版)
世界の民謡・童謡 HP
■編曲者 クリストファー・パルマー
楽曲の内容に入る前に、この映画音楽を管弦楽組曲に編んだ名アレンジャー、クリストファー・パルマーのことに触れないわけにはいかぬ。
パルマーはシンフォニックな映画音楽の世界において、ウォルフガング・コルンゴルトやミクロス・ローザらから連なる系譜にある。惜しくもAIDSの合併症により夭折(享年48)したこの天才は、「タクシー・ドライバー」(バーナード・ハーマン作曲)をはじめとする数多くの映画音楽のアレンジにより、その手腕が高く評価されている。
またアーノルド作品のみならず、ウィリアム・ウォルトン作曲の映画音楽「メジャー・バーバラ」「ウォータイム・スケッチブック」「ヘンリー5世」などの演奏会用組曲を後世に遺した功績も極めて大きい。名だたる大作曲家たちのパルマーに寄せる信頼が如何に厚かったかを物語るものである。
「第六の幸福をもたらす宿」においてもイントロダクションからエンディングに至るまで、アイディアに溢れ非常に効果的な楽句がちりばめられた、構成感に優れたアレンジとなっており、聴衆を惹きつける感動的な音楽をアーノルドとともに創造していることが聴きとれる。まさにパルマーの才能を証明するものに他ならない。
【参考・出典(ウェブサイト)】
In Memoriam -Christpher Palmer by Ian Lace
Christopher Palmer Biography by James Reel
Biographical History Christopher Palmer by Patrick Russ
■楽曲解説
この魅力あふれたアーノルドの映画音楽を、パルマーは鮮やかに3楽章の組曲にまとめている。過不足のない、見事な構成となっている。
Ⅰ. ロンドン・プレリュード
中国への布教活動に意欲を燃やすグラディスの強靭な意志と、内に秘めた深い慈愛を表す楽章で、それとともにグラディスがロンドンへと上京した情景と未知の世界への緊張、不安をも表現している。
曲は緊張感漲る高音と低音+Timpani との掛け合い(Andante Maestoso) に始まり、「決意のテーマ」のモチーフが聴こえてきて高揚すると、広く遠く視界が開けて壮大な序奏を形成する。これに続いて Horn が凛然と「決意のテーマ」の全容を提示する。高貴にしてスケールが大きく、強靭なメロディである。
これが繰返された後、グラディスがロンドン駅に到着したシーンを挟んで、第2の主要旋律である「愛のテーマ」が弦合奏に現れる。
このたっぷりと情感豊かな旋律は、音域を上げて一層切なく歌い上げるもので堪らなく感動を誘う。
金管群のファンファーレ楽句や重厚な Timpani、華やかな Harp にファンタジックなCelestaなどで巧みに彩られつつ全曲を総覧する ”前奏曲” は、終盤に向かい徐々に落ち着き穏やかな表情となって、次楽章へと続く。
Ⅱ. ロマンティック・インタールード
Tempo rubatoでひそやかに始まる Flute ソロが奏でる旋律は中華風だが、続く Cello のソロでそれは一層鮮明になる。Piano や Harp による伴奏も中華風のムードを醸しているのだ。
遥か中国の地で、さまざまな事件や出来事の合間にマンダリンが催した晩餐会-
この ”間奏曲” は主人公グラディスが紅いチャイナドレスで現れたその宵の情景を想起させて已まない。バーグマンの奥行きのある美しさをイメージさせる音楽であってほしい。
穏やかで暖かなムードの「決意のテーマ」を短く挟んだ後は、幻想的な曲想で「愛のテーマ」が奏されていく。何とも慎ましやかなのは、グラディスとリン大佐のまだ仄かな恋を描いているからか。
旋律のクライマックスへと連なる Oboe ソロはあまりに切なく、その美しさが胸を締めつける。
ひとときの甘き安らぎの時-それは夢のように過ぎ去っていく。
Ⅲ. ハッピー・エンディング
前楽章からいきなり現実に引戻すが如く、終楽章(Con moto, Pesante) はパワフルで緊張感のあるオープニング。「決意のテーマ」 と低音群の伴奏とがポリリズムとなって奏されると、不安感を示す Trombone のグリッサンドや、
金管群の強烈な ffpp クレシェンドの繰返しなどが続き、高いテンションのまま推移する楽想となっている。
この曲の前半部分は山越えで安全な西安へと脱出しようとするグラディスと子供たちに次々と迫りくる苦難を描く。険しく苦しい山道、極限の空腹、いつ出会うかも知れぬ日本兵の恐怖、冷たい急流の渡河、愛する友の尊い犠牲…。緊迫のシーンが続く音楽なのである。
壮大なクライマックスを経て、「決意のテーマ」による Flute + Bassoon+Piano の軽妙なブリッジを挟んでの後半(Alla marcia ♩=96)は、それらを乗越え西安の街へ ”This Old Man” の歌声とともに元気に行進して来る子供たちの姿を描いていく。全曲最大の聴かせどころだ。
まず遠く遠く聴こえる Snare Drum に続き、Piccoloが ”This Old Man” を楽しげに歌い出す。(as if distant の指示)
そこから徐々に伴奏が増え、旋律はさまざまな楽器に移って計13回繰返され、実に55小節に亘る息の長いクレシェンドで奏される。その音色配置の巧みさとニュアンスの多彩さに注目したい。
旋律はもちろん陽気なものであるが、決して最初から元気いっぱいではない。
か細く始まったこの歌が徐々に心身を鼓舞しているうちに、希望の地に近づくにつれ高まる喜びとともに相乗的に高揚してくるさまを、遠くから近づいてくるさまとの両面で、描いて欲しい。心裡の高揚と情景のクローズ・アップとを、実に息の長いクレッシェンドをもって表現するのだ。
Tromboneがグリッサンドをかましてくるあたりから陽気さが高まり、続いて賑やかな打楽器群が加わりマーチ風に Trumpet の「決意のテーマ」が絡んできて…遂には眩しいばかりの輝きに満ちた ”This Old Man” となる音風景は、理屈なしの感動を与えてくれるだろう。
”This Old Man” はクレシェンドの頂点で最後にLargamenteで雄大かつ情感豊かに奏されて(14回目)締めくくられ、楽曲は静まって「愛のテーマ」が再び現れる。ジェナイ=博愛の人と称されたグラディスの物語の終幕に相応しい帰結である。
コーダは鳴り響く華麗な ”鐘の音” が表現され、最高に劇的な Timpani ソロに続いて全合奏のコードとドラが響きわたるや、豊潤なサウンドのクレシェンドに包まれて最高の ”ハッピーエンディング” となる。
■推奨音源
アーノルドの魅力的な旋律を生かし、カラフルでスケールの大きな演奏を期待したい楽曲である。管弦楽版の音源は非常に少ないが、「決定盤」と云うべき録音がある。
リチャード・ヒコックスcond. ロンドン交響楽団
超絶名演…!! 色彩が豊かでメリハリがあり、感動的な演奏である。
特に「ハッピー・エンディング」の ”This Old Man” の部分はテンポ設定も抜群で、パルマーがセットした遠近感と色彩の変化を、実に息の長いクレシェンドの中で存分に示しているのが素晴らしい。
エンディングも感涙を誘わずにはいない劇的さであり、まさに Bravo !
【その他の所有音源】
ヴァーノン・ハンドリーcond. ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(Live)
尚、映画そのものの音楽風景については、サントラ盤があるのでそちらを聴かれたい。
アーノルドの魅力あふれる楽曲が、映画を支えていることを実感できるだろう。
-Epilogue-
このドラマティックな音楽の魅力を、余すことなく表現した演奏を期待する。
この曲をコンクールの演奏で聴くとカットしたりテンポを速めたりすることによって、
” 「This Old Man」 を歌って行進してくる子供たちが直ぐに到着しちゃう ”
演奏を耳にすることがあるが、全くもって「幻滅」でしかない。
フィナーレの「ハッピー・エンディング」にて13回も繰返され、実に55小節に亘る息の長いクレシェンドで奏される ”This Old Man” -これを表現してこそ、この素敵な曲の魅力が伝わるのであり音楽の、演奏の価値は生まれる。
このことを演奏する側も、聴く側も (審査する側も) 確りと理解し認識してほしい!さすればツギハギだらけの、この楽曲へのリスペクトを欠いたカットや演奏は一掃されるはず。
心を尽くした表現のその最後の最後-Timpani ソロに続くドラと全合奏の豊かなコードに思わず感涙あふれる瞬間を、演奏者も聴衆も存分に共有できる、そんな音楽の瞬間を…
この曲を演るのなら、真摯にそれを目指そうではないか !!
<Originally Issued on 2013.1.1. / Revised on 2022.5.17. / Further Revised on 2023.11.2.>
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