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古 祀

hassey-ikka8

更新日:2024年5月23日

KOSHI - An Ancient Festival 保科 洋 Hiroshi Hoshina (1936- )


-Introduction-

                   古代祭祀遺跡で知られる「沖ノ島」 (福岡県宗像市:玄界灘) に祀られた浜津宮


「曲は題名が示すごとく、古い祀(まつり)のイメージを作品にしたもので、厳かな祈りの部分に始まり、狂信的な踊りへと続く。一転して、艶やかな女性の踊りが始まり、儀式はたけなわとなる。やがて女性が退場し、又もや全員の踊りが始まる。踊りはますます激しさを増し、クライマックスへとなだれこむ。踊りつかれた人々は最後の祈りを捧げ、儀式は静かに終わる。

以上の様な想定のもとに、曲は進行して行く。

曲の性格上、音素材としては古い教会調を使用し、和音も比較的単純な和音を多用しているので、分かりやすい曲になっていると思う。」

-1980年版フルスコア所載の作曲者によるプログラム・ノートより


■作曲者および楽曲概説

1980年に保科 洋が自身の管弦楽曲「祀 (まつり)」を吹奏楽に改編する形でこの 「古祀」は誕生した。ヤマハ吹奏楽団 (浜松) の創立20周年を記念して委嘱されたもので、同楽団はこの年の全日本吹奏楽コンクール招待演奏で披露したほか、1984年には自由曲としても採上げ全国大会金賞を受賞している。

また、作曲・初演後直ちに秋山 和慶cond. 東京佼成ウインドオーケストラによる優れた録音が発売されたことが、楽曲自体の素晴らしさとともに相乗的に人気を高め、非常に多くのバンドで演奏されることとなった。


※尚、”演奏技術の進歩に合わせオーケストレーションを改訂” した「1998年改訂版」が存在する。

 本稿は譜例含め、全て1980年版に基いている


保科 洋といえば 「風紋」 (1987年度全日本吹奏楽コンクール課題曲) が圧倒的な人気を誇るが、1960年代から兼田 敏とともに本邦吹奏楽界を代表する作曲家として非常に優れた作品を提供し永く活躍を続けている。


※兼田 敏 (1935-2002) とは非常に親密であり、兼田 敏の生前より予めお

 互いの ”葬送曲” を贈りあったというエピソードは有名。

 兼田 敏が保科 洋に贈ったのが「嗚呼!」 (…保科洋君!と続くらしい) で

 あり、これに応えて保科 洋が兼田 敏に贈ったのが「Lamentation to - 」

とのことである。


「交響的断章」「カタストロフィー」「カプリス」「カンティレーナ」「愁映」など素晴らしい作品が多数上梓されており、風紋ばかりがクローズアップされるのが不思議なほど。


そして「古祀」こそは、それら保科作品の中でも、最高傑作の一つと云えるだろう。

スケールの大きさ、判り易くも陳腐さがないという凄さ、そして完結感の充実ぶり…近時この曲の演奏機会が減少しているのが疑問に思えてしまう。


■日本の古代祭祀

保科 洋は自身が抱いた ”古い祀のイメージ” から生まれたこの作品の演奏について、

「各部分の対比、および各部分内での表現を、いかに曲名のようなイメージに合わせるか、が大切である。非常に抽象的な言い方であるが、この曲を演奏して何を表現したいのか、を明確に把握しておいて欲しいと思う。」

とコメントしており、演奏においてはその 「祀のイメージ」 がどのようにもたらされたのか、或いは具体的に何の 「祀」 なのか- に思いを巡らしておく必要があるだろう。 とはいえ保科 洋がそれについて詳細に語った文献は見当たらず、ただ未明から夜明けにかけての古代的祭祀であることが示されたのみである。

ごく日本的なものであるとの推定もできることから、この 「古祀」 という楽曲の表現する内容に照らしつつ 「日本の古代祭祀 を理解すべく情報を整理してみた。


 ✔「まつり」とは

日本における民俗学の基礎(「折口学」と称される)を成した折口 信夫は”まつり”の原義について 「神慮・神命の現れるまでの心を守つ (まつ)」 ことと述べている。この ”まつ”とは強く、焦心を示すほど期することであるから、 ”まつり” とは呪詞・詔旨を唱誦する儀式に始まったのだという。

それが神意を具象するために呪詞の意を体して奉仕し、更には神意の現実化したことを覆奏する (=祀る・祭る) ように転じていった、としている。


   【出典】「古代研究 I 祭りの発生」 折口 信夫 著 中央公論新社


 ✔古代祭祀と女性、そして酒との関わり

「古祀」 には酒宴での女性の踊りも登場するが、基層信仰にみられる 「女の霊力」 は、その実態が男女の性的結合の持つ根源的力への信仰に支えられた豊穣の祈りに他ならない、とされている。その ”祈り” に欠かせない共同体レベルでの集団の男女の (模擬的) 性結合が、後の専業神職者の男女ペアの基礎であるとも分析されているのである。

また常陸国風土記に記述された、”男女悉集” して行われる祀りの場での飲食は、「飲食物を供えて…神魂のいきわたった飲食物を神のもとで共同飲食し、そして歌舞し、神を『賀』したものであり、…その延長の性的解放の場も神との一体化により、神の持つ豊穣力を期待する予祝行事」 であることが窺えるという。

また「酒」こそはまさに神と人との共食を具体的に媒介するものであり、それゆえに神事には酒が欠かせないのだ。


   【出典】「日本古代の祭祀と女性」 義江 明子 著 吉川弘文館


✔ 「沖ノ島」 にみる日本古代祭祀の遺跡

日本古代祭祀の遺跡としては、まっ先に福岡県沖玄界灘に浮かぶ 「沖ノ島」 があげられる。

そこで執り行われた祭祀のうち、最も古い形態は玄界灘を望む巨岩の上に祭壇を置く、”岩上祭祀” であった。

人の魂も、動植物の魂も同次元に捉えて丁重に弔い、再生を願う祈りがその儀礼の始まりという。

祀られるものは死者の霊魂ではなく神であり、その神とは常在するものでなく ”降臨” するもの。巫(めかんなぎ・女性)とか覡(おかんなぎ・男性)と呼ばれる宗教者が ”神懸り” して、その口から神の言葉を得るものであったという。


宗像大社の浜津宮が祀られたこの「沖ノ島」は現在でも女人禁制、上陸にあたっては例外なく全裸で海に漬かる ”禊” が必要な、それ自体が聖域とされる島である。

「その身に抱えている俗世が、水に入ったその一瞬、たちまちにして反転する。身ひとつの個となって、何ものかに対して平等の存在となってしまうのである。

…なるほど、禊というものにはこういった効果があるのか。」


   【出典・参考】

    「宗像大社・古代祭祀の現風景」 正木 晃 著 日本放送出版協会

    福岡県観光WEB クロスロードふくおか https://www.crossroadfukuoka.jp/feature/cultural

    世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 HP https://www.okinoshima-heritage.jp/

   「日本の神々の事典」 学研

    「古代の神社と祭り」 三宅 和朗 著 吉川弘文館

以上のように研究文献/参考資料に触れてみると、さまざまな ”古代祭祀” のイメージが膨らんでくる-。

同時に 「古祀」 という作品が描いた ”古い祀のイメージ” も、必ずしも特定の、具体的に解明された史実を辿るものではなく、作曲者がもっと自由に想いを巡らせたものであると推定して良いであろう。


■楽曲解説

楽曲は、明確な5つの部分から成る。

作曲者・保科 洋による解説(「 」) とともに、内容をご紹介する。

 ※佼成出版社 刊の原典版スコア、並びにBRAIN社発売のCD「風紋-保科洋作品集」リーフレット所載の解説によ

  る。また、楽曲の内容については佼成出版社刊の原典版をもとに記述。


第Ⅰ部 ”祈り Ⅰ” (1-45小節)

「まだ薄暗い祭壇の前、民衆は祭壇への行列をしずしずと繰り返しながら、神への敬虔な祈りを捧げる。

-静かな祈りの部分である。この曲全体に言えることであるが、主旋律のフレーズの中心点が、そのフレーズの中で比較的低い音に与えられている。このようなフレーズは、一般的に内攻的な、又は抑制されたパッション等の表現を意図しているが、この曲でも、そのような表現を意図している。」

 ※原文ママ:”内向的” が正しい可能性あり

密やかで深遠なオープニング。沈み込んでいく旋律に続いて登場する、玲瓏な Flute ソロが大変印象的である。各楽器の応答により息の長いフレーズが奏でられ、祭祀の神聖さや敬虔な精神性が感じられる。

やがて Muted の金管群が奏するフレーズが現れ (22小節)、これに木管群が応答するが、ここはまさに祭祀の始まりとなる呪詞・詔旨を唱誦する儀式を表すものであろう。


第Ⅱ部 ”民衆の踊り Ⅰ”(46-103小節)

「祈り終わった民衆は野生的な踊りを始める。踊りの輪は徐々に膨らみ、熱狂的な全員舞踊に発展する。

-リズムが主体の部分であるから、タテのメリハリ、アクセント、テヌートとスタッカート、等、指示された記号を大切に扱って欲しい。」

一旦高揚した ”祈り” が深く鎮まるや、その静寂を打ち破って ”踊り” が始まる。

10/8 拍子(2+3+2+3) や 9/8拍子 (2+2+2+3) による変拍子のリズムが野性味豊かな曲調を演出する、エネルギッシュな音楽である。瑞々しい響きのハーモニーを持つ弾けるような伴奏も素晴らしいし、激しいリズムの躍動と幅広いフレーズとがクロスオーバーしているのが面白い。途切れることのない緊張とスピード感が民衆の熱狂を見事に表現している。

-しかしながら、この ”踊り” はリズムが甘くなるとたちまちに音楽の輝きを失う。

その落差の大きさたるや…非常にシャープな演奏が求められる部分である。


第Ⅲ部 ”巫女の踊り” (104-136小節)

「民衆の踊りが一段落すると艶やかな巫女がしずしずと現れ、幻想的な踊りを舞い始める。民衆は車座になって巫女の踊る様を目で追っている。

-音楽的な表現としては、この曲の中で、おそらく最も難しいのではないかと思う。楽譜には書き表せないようなテンポルバートが、この部分では不可欠である。このようなことは楽譜にも記入しなかったのだから、まして文字で書く気はないが、一つだけ、フレーズの終わりを大切に、余韻を丁寧に、ということに留意して欲しい。各部分のソロは音色を大切にしてよく歌って欲しい。」

緩やかで美しい女性の踊り。たおやかで清流のような煌きのある序奏に続き、Cor anglais が落ち着いた美しさの旋律を、朗々と吟じる。そして、夢見るようなサウンドに包まれて、穢れなき女性の幻想的な踊りが自由自在に揺れながら続いていく。

また Clarinet と Horn がソロで掛け合う終盤は、古代への郷愁を強く感じさせる実に魅力的なものである。


第Ⅳ部 ”民衆の踊り Ⅱ”(137-176小節)

「巫女が祭壇から姿を消すと、再び民衆は踊り始める。踊りは前にも増して陶酔状態となり興奮の極致に至る。

-導入部と終わりは全曲のクライマックスを持つ部分である。最初の導入は非常に難しいが、いつ入ったか分からないような感じで急速に盛り上がっていくように。その後は第II部と同じだが、途中から踊りはより狂信的になり、より激しく、盛り上がって、クライマックスへと突入していく。そのため、あまり落ち着いた演奏より、熱っぽい盛り上がりが適しているように思う。」


遠く消えていった女性の踊りに続き、インパルスを発しながら蠢く低音楽器群+Marimba によって民衆のざわめきが始まる。

これが急激に高揚したところで Trombone の鮮烈なグリッサンドが咆哮し、

野生が呼び返されて再び全員の踊りとなる。

増嵩した熱狂は華々しい金管の楽句と、激しく下降していくパッセージの応酬により雄大な楽想となり、Horn ( + Euphonium ) が高らかに祀りの最高潮を告げる。


第Ⅴ部 ”祈り Ⅱ”(177-最終小節)

「踊り疲れた民衆は再度祭壇の前に集まり、祈りを捧げながら三々五々散っていく。朝日が漸く昇り始める。

-この部分の冒頭は全曲のクライマックスを形成するが、177小節がクライマックスではなく、177-184小節全体がクライマックスであることを忘れないように。あとは、第Ⅰ部と同じ静かな祈りの部分が続く。205小節以降はコーダであるが、全体への回想と全曲の余韻を大切に、特に最後の金管のコラールは丁寧さが欲しい。」


打楽器と低音による、劇的な長いクレッシェンドに導かれ、全合奏で ”祈り” が唱えられる。重厚なサウンドにより、単なる華々しさとは異なる高揚を示す実にスケールの大きな音楽が全曲のクライマックスを構築する。

音勢が徐々に収まると、敬虔さに溢れる金管のコラールがしみじみと響きわたって祀りの余韻を湛えつつ、やがて音楽は遠く遠く、距離も時空も彼方へと消えていく。


■推奨音源

秋山 和慶cond. 東京佼成ウインドオーケストラ

圧倒的な名演。緊張と優美、深遠と躍動が全て高次元でシャープな演奏。

5つの部分の対比を活かしながらも、違和感ない全曲の纏まり。









木村 吉宏cond. 大阪市音楽団

1998年改訂版を収録。

本改訂版では、第Ⅲ部での変更もさることながら、第Ⅳ部最終盤のベースライン変更が特に印象的。









【他の所有音源】   原田 元吉cond. ヤマハ吹奏楽団(浜松)


-Epilogue-

さてこの傑作 「古祀」 に1998年改訂版が存在することは既に述べた。現在新たに入手可能(レンタル譜)なのはこの1998年版であり、近年はこの版で演奏されるのが専らであろう。


しかしながら、私個人的には1980年版の方が好きだ。中間部=”女性の踊り”は1980年版のオーケストレーションの方が深遠にしてミステリアスに感じられるからである。 1998年版は Sax. の音色を重用することで音楽の輪郭はくっきりとしたものになったと思うが、一方で近寄りがたく畏れ多い印象だとか古代のムードは後退したように感じられる。 そして何より1980年版の125-128小節にあった、比較的高い音域を用いて音色にテンションを効かせたTrombone のハーモニーが無くなっているのはとても残念。

ここは地味ながら Trombone の見せ場だったからである。


1998年改訂版ではそもそも Trombone が弱奏で奏でるハーモニーの大半が Cup Muted に変更されていて、本来 Trombone が持つ弱奏の美しいハーモニーの音色の魅力をストレートに発揮できないことを残念に思う。

これは作曲者の思い描いた演奏を、吹奏楽界の Trombone 奏者たちが実現できず、その期待を裏切ってしまった(=ただ”うるさい”と感じさせてしまった?) 結果なのだろうか-。


創作物は創作者のものであって外野が口を挟む必要はないのであるが、既に刻まれたこの楽曲の想い出や印象からすれば、何とも惜しまれると言うほかはない。



<Originally Issued on 2009.7.27. / Revised on 2024.5.8.>


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